Comes to an Angel 02



 微かな不快感に引きずられるようにして、獄寺は目を覚ました。
 酷く喉が渇いていた。
 喉の奥に、渇きを通り越して、ひりひりと灼けつくような痛みが、べたりと張り付いている  けれど。
 そんな不快感よりも、ずっと確かな安心感が、ぴったりと獄寺の背中に寄り添って、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。寄り掛かるだけでは物足りないのか、腕が一本、ぐるりと回しかけられている。ちょうど獄寺の腰の辺り。素肌に直接触れていて、くすぐったい。
 けれど、それだけだ。
 昨夜の振る舞いとはまるで繋がらない、なんの意図もない仕草。それが可笑しくて、目が覚めたこの時だけは、獄寺はついいつも笑ってしまう。
 今、獄寺の五感に捉えられる世界で、健やかなのは背後で眠るその人だけだ。
 身体は気怠く湿った温かさに包まれている。二人分の体温と、美化のしようもない代謝物が二枚の布の間を埋めている。
 全て、昨夜の名残だ。
 こんなに喉が渇いているのに、体中に残る泥のような気怠さも、背後の健やかな吐息も、獄寺を安心させるばかりで、一向に危機感に転じない。
 けれど、カーテン越しの日差しは、既に部屋の中でも物の形がわかるほどになっている。
 このままではいけない、と、獄寺はまどろみに引き返そうとする瞼を叱咤して、ベッドサイドの時計に目を向けた。
   九月十日。
 日付は変わったけれど、慌てて飛び起きる時間でもない。
 慌てて飛び起きる時間ではないけれど、でも、もう九月十日の朝だ。
 それだけ確認して、獄寺は再びベッドに顔を埋めた。
   喉が渇いた。
 うつ伏せて吸い込んだ空気は生温い水の匂いを含んでいる。
 いきものが、二匹いるにおい。まるで、まともな人間のベッドではなくて、動物のねぐらのようだ。
 事実、昨晩には自分がそこで四つ足を突いて啼いていたことを思い出して、獄寺は赤面した。
 さんざん、我が儘を言って、駄々を捏ねさせられた。自分が決して無欲な人間でないことはよくわかっているから、出来るだけツナの迷惑にはならないように心がけているのに、そんなお行儀の良さなんて容易く見破られてしまった。指先一つで切り裂いて、中まで踏み込んでぐちゃぐちゃにかき乱して、そうして全部暴かれた。
 白状させられた欲求を、ひとつひとつ思い出してみる。口にするときは羞恥心も躊躇いもあったのに、一晩経つと感情それ自体はすっかりその熱量を失って、冷静な記憶になっていた。
 ひどく高いところまで昇らされた。最初は手を取って、導かれるまま一歩ずつ。やがてその手は後ろに回って、背中から後押しされるまま、昇って、昇らされて、もうそれ以上進めなくなったところで、そこから飛び降りろと命じられた。自分は、泣いたような気がする。狡いとか酷いとか、そんな言葉も口にした気がする。
 高いところに置き去りにされて泣きわめいて、最後は言われるまま、落ちて、抱き止められた。それまで感じた気持ちは全部、落下の恐怖もなにもかも、抱きしめられたときの安心感で書き換えられてしまった。今も  
 今も、こうして腕の中にいる。
 獄寺はそっと自分を抱く腕に手を重ねた。
   でも、もうおしまいだ。
 朝が来てしまった。九月十日の。
 だから、昨日はもうおしまいだ。
 獄寺は目を閉じて、重ねた手の平の体温を心に刻み付けた。本当は、抱きしめて口付けたかったのだけれど、起こしてしまいそうで、それは出来なかった。
   もうちょっと、なんて言いだしたらきりがない。
 獄寺はそおっと抱き寄せる腕から抜け出した。脱ぎ捨ててあったシャツを探し出して、静かに袖を通す。ボタンを留め終えて振り返っても、まだ目を覚ました気配はない。
 獄寺は前に向き直ると、未練を断ち切るように勢いよく立ち上がった。
 何も今生の別れじゃない。ほんの数時間後にはまた会えるんだから  しかし。
「……ぅぎゃっ」
 勇ましく一歩踏み出したところで、獄寺は後ろから引っ張られてつんのめった。格好悪い声まで出た。
 振り返る。シャツの裾が掴まれていて、捕縛する網のようにぴんと尖った三角形を形作っている。そのもう頂点を掴んでいるのは、ついさっきまで寝ていたはずのこの部屋の主、沢田綱吉その人だった。ベッドに横になったまま、悪戯そうに目を細めて笑っている。
「おはよ、ごくでらくん。」
 ボンゴレのボスとなった今でも、ツナの怠惰な性格は昔のままだ。獄寺より先に目を覚ましていることなど、とても珍しかった。
「……おはようございます、10代目。起きてらしたんですね。」
「ん……? うーん。うとうとしてたんだけど……」
 起き抜けのせいか、ツナの声はいつにもまして穏やかに柔らかい。にもかかわらず、獄寺の上着を掴む手だけは、がっちりと、少しの隙もなかった。
「緊急事態で目が覚めた。どこ行くの、獄寺君。」
 どこも何も……。
 これはまだ、寝ぼけていらっしゃるようだ、と、獄寺は判断した。
「もう朝ですから、部屋に帰ります。10代目は、もう少しお休みになっていてください。目覚ましはかけてありますから。」
「んー……そう。じゃ、もうすこし……」
 ツナは再び目を閉じ、当たり前のように獄寺をベッドに引きづり込もうとした。
 獄寺は見事によろけ、驚いて大声を出す。
「ちょっ……あの、10代目!?」
 ゆさゆさと肩を揺すると、やっと、ツナはまだ眠たそうに目を開けた。
「手を、離して頂けませんか? 10代目はお休みになっていて結構ですが、オレはもう行かないと。」
 二度、三度、ツナが瞬きする。とろんと寝ぼけていた瞳に意思の輝きが戻ってきた。……二度寝を邪魔されて、いささか不機嫌そうな色合いで。
「なんで? 獄寺君、もう行っちゃうの?」
 クン、と強くシャツを引かれた。
 獄寺はぎゅうっと自分を掴んでいる手を見て、ちらりと時計を見て、もう一度ツナの手を見て、眉根を寄せた。『困ります』と、声には出さず、その手の主に抗議を試みる。
 それぞれの視線が交差したあと、先に目元を緩めたのはツナだった。
 ふっと笑うように目を細める。もう一度、シャツの裾を引かれる。獄寺が小さく息を吐いた。
 無言の笑みに指示されるまま、獄寺はツナに身体を寄せる。ベッドに片膝を突いて、覆いかぶさるように上からツナを覗き込む。
 もう一度口を開くと、言い聞かせる口調とは裏腹に、その声はそわそわとうわずっていた。
「10代目、オレはもう行かないと。10代目がいらっしゃる前に片付けておかなきゃならない仕事があるんです。」
「そうだね。でもそれ、本当にそんな急いでやらなきゃいけない仕事?」
 ぎくり、とする。
 毎朝の獄寺の仕事。
 まずはボンゴレファミリーのボスの右腕としてふさわしく身を整えること。
 それから、一足先に屋敷に赴いて、執務室の鍵を開け、窓を開けてカーテンを開けて、朝の空気を部屋に呼び込む。遅れてやってくるツナが、ドアを開けるそのタイミングにちょうど間に合うようにコーヒーを淹れる準備をする。
 その傍ら、夜のうちに送られてきた報告書やそのほかのニュースに目を通す。ツナの耳に入れるものとそうでないものに分類して、余裕を持って仕事を始められるようにする。
 全ては多忙なツナがせめて朝ぐらいは穏やかに迎えられるようにという配慮によるもので  仕事というよりは、獄寺が勝手にやっている、半分趣味のようなものなのだ。『本当にそんな急いでやらなきゃいけない仕事』ではない。
 獄寺が言葉に詰まる。
 その隙をついて、ツナの右手が獄寺の背中に回った。ゆっくりと宙に浮いたままの身体を引き寄せる。
 もう片方の手は、ぺたりと頬に押し当てられた。白い肌の上には俯せて寝たせいでうっすら朱く痕がついている。その赤いラインを撫で、寝癖のついた髪を梳くように額に触れ、細いうなじに滑り落ちると、ツナの手は『もっと頭を低くするように』と獄寺に命じた。
   キスできるところまで降りてきなさい。





Next 03




10.10.17.
back