ふたりの場所 -03- 「ですから! ベッドは10代目が使ってください! オレは床で寝ます!」 「…………わかった。じゃあ、お言葉に甘えて。」 押し問答には綱吉が折れた。 譲られたベッドに上って、頑として床に居座った獄寺におやすみを告げる。ごろりと横になると懐かしい感覚が身体を包んだ。 中学生の獄寺は知るはずもないが、綱吉はその安物のパイプベッドの感触を良く知っている。マットレスが薄くてうっかり変な姿勢で抱いたまま眠ると腕を痛めることも、左脚のネジが緩んでてギシギシ軋むことも。 何もかも、良く覚えている。 灯りを消してもありありと思い出せるほど身に馴染んだ景色の中で、中学生の獄寺だけが、壁際で膝抱えたまま身を固くしていた。カーテン越しの街灯がネオンサインみたいな緑の瞳を光らせる。 「……やっぱそこじゃ眠れないだろ、獄寺君。こっち来る?」 「いえ。」 獄寺は首を横に振った。 「じゃあ、何か考え事?」 図星。獄寺が驚いて小さく息を飲む。 「そりゃ分かるよ。こっちは10年も君を見てるんだもん。 何が心配?」 お見通しだよ、と優しく問いかける声に獄寺は意を決した。 一つ深呼吸して、口を開く。 「リボーンさんは、聡明な方です。 おもしろ半分で10代目を 向こうで、何かトラブルでもあったんじゃないですか?」 「その心配はないよ。」 綱吉が断言すると、獄寺はかえって訝しげに眉をひそめた。 「だって、自分で言ったろ。 リボーンはそんな無茶するやつじゃないし、向こうには10年後のみんながいる。 オレなら大丈夫だよ。」 なら、と小さく獄寺は吐き出した。 壁際の暗がりで膝を抱えたまま、重い呪縛でも振りほどくようにして顔を上げる。勢いに長い髪が乱されて、それだけが軽やかに、暗闇にきらきらとひらめいた。 「なら、なにかあったのは10代目のほうです。」 獄寺は瞬きもせず綱吉を見つめていた。意志の強い瞳は思い詰めていて、なかば睨んでいるような印象を与える。繰り返す声がひとまわり大きくクリアになる。 「なにかあったのは、10年後の、あなたのほうです。」 小さく語尾が震えた。 ずっとそんなこと気にしていたんだろうか。 綱吉は体を起こした。 「……お利口さんだね。獄寺君。」 「からかわないでください、10代目! オレは本気で 獄寺がベッドににじり寄る。 「本気で言ってるんです。 そりゃ、オレはガキだし、10代目には何の役にも立たないかもしんないスけど、でも」 まだ育ちきらない指でベッドの端を掴んで、獄寺は言葉に詰まる。 綱吉は、見上げるほどに背が伸びて、声も低くなって、笑う声も落ち着いて、もうすっかり大人で……ほんのちょっとも自分に手だしできるところなんて無いように思えた。それでもなぜか、見ていると胸のどこかが不安になる。中学生のツナを、守らなきゃと思うのと同じように。 まるで、この人はオレに会いに来たような気がする。そんな気がするのだ。 獄寺は再び顔を上げる。真っ直ぐに見上げること以外、この思いを伝える術が見つからない。 「10代目。なにか、オレに出来ることはありませんか?」 『オレにできることなら何でもします。』 と、中学生の獄寺君は言った。 なんでも、なんて、軽々しく言うものじゃないよ。 オレはもう、君の10代目じゃあないんだから。 ゆっくりと綱吉は身を屈めて、その瞳を覗き込んだ。 「……なんでも?」 息を詰めて、大きく獄寺が頷く。 「じゃあ、こっちおいで。」 綱吉は座り直すと、ベッドの上を指差した。 「後向いて、ここに座って。」 ベッドの端に腰掛けた綱吉の、ちょうど膝の間。 つかの間ためらった後、獄寺は要求の通りにした。 ベッドの端に浅く腰掛ける。僅かに緊張し固くなったその背中に、綱吉は覆いかぶさった。自分に比べればずっと華奢な獄寺の身体に、そっと腕を回す。 「一晩、こうやって身体借りててもいい?」 背中が温かい。耳元で囁かれた低い声に、獄寺はぞくりとした。 黙ってうなずく。回された腕に引き寄せられる。胸の奥が苦しくなって は、と短く綱吉が嘆息する。どこか自嘲混じりに呟く。 「君からは、もらってばっかりだね。」 『君』というのは自分のことではない。 獄寺は薄々勘付いていた。 ずっと、この年上の男は自分の中に誰かの面影を探している。 いや、逆か。自分の上に、10年後の自分の姿を重ねている。だから、こんなにやさしくて、少しだけぎこちない。 すこしだけ、ぎこちないのだ。 ぱちりと獄寺は闇の中で目を開けた。 カーテンの隙間からさし込む光が、冷たい床の上に一筋白いラインを引いている。窓際からくっきりと、真っ直ぐに伸びている。 当たり前だ。光はただまっすぐに直進するものだ。 なのに、獄寺の前を通りすぎ、部屋の奥の暗がりのあたりに届く頃には、その光はいつのまにかぼやけて消えてしまう。 消えてなくなった訳じゃない。拡散して視認できなくなっただけ。 そう理解していながらどこに行ってしまったんだろうと不思議で、ぼんやりと獄寺の視線は虚空を追っていた。 帰り道、アスファルトの上に続く白いラインは、どこまでも続いていくように見えたのに。 「……10代目。」 「なに?」 「10代目は……本当に、オレと付き合ってんですか?」 付き合ってる、という言いまわしが久しぶりに耳にした言葉で、今更くすぐったくて、綱吉は小さく笑った。 「うん。付き合ってるよ。中学の時からずっとね。 あんまりずっとだから、こんな風に訊かれるのも久しぶりだ。」 「今も……なんスか?」 「今って?」 「あの事件が終わったあと。10年後のあなたとオレは、ちゃんと……」 いまでも…… 尻すぼみに獄寺は口を噤み、かくりと人形のように頭を垂れた。そうして目を閉じて、まるで答えを知っているかのように、問いかけるのをやめた。 子供は残酷だ。 大人になった獄寺は、そのことについては一言も触れない。 衝突を避け、口を閉ざし瞳を伏せて、ただ静かに以前と同じ日々を過ごしている。山積した課題が不自然な時間を埋めている。 あの激情家が、ことの真相を知って何も思わないはずがないのに。怒ると思ったのに、何にも言わない。もしかして本当に、何も感じていないのかもしれないと思わせるほど。 綱吉はそっと子供を抱く手に力を込めた。 遠くに向けて大切にささやく。 「いまでも、大事だよ。オレの一番の人。」 「……じゃあ、なんで、」 獄寺はただ問い返そうとした。訳を知りたかっただけなのに、喉の奥が勝手にひくっ震えてその質問を拒んだ。飲み下して、言葉を紡ぐ。 「なんで、オレを置いていったんですか? ずっと一緒にいるって、そう言ったのに。そばにいてお役に立ちたいって何度も言ってるのに……なんで、オレを置いてったんですか?」 「ごめんね。」 「 獄寺は身をよじって綱吉を見上げ、睨み付ける。 緑の目は濡れていて、暗闇に獣のようにぎらぎらと光った。 「何言われても、もう信じられないんです! だって、本当に、死んだんだと思って、死んじまったんだと思って、オレはまたお役に立てなくて……! そう思ってたのに、なのに……っ 全部、計画で、10代目は、オレの…知らないところで、生きて…て、」 ぽた、と頬を伝って雫が落ちた。 「獄寺君だから、内緒で計画したんだよ。獄寺君にしかできないことがあったから。獄寺君なら、一人でも大丈夫だと思ったから、」 「大丈夫じゃない!」 叫んだ声は悲鳴に近かった。 「全然大丈夫じゃない! そんなの、あんたが一番分かってるはずなのに、一番分かって欲しいのに、」 なんで…… あとは、言葉にならなかった。綱吉のシャツを掴んで、爪を立てて、胸に額を押し付けた。綱吉の胸は獄寺の知るそれよりずっと広くなっていて、力一杯しがみついてもびくともしなかったから、獄寺は爪を立てたままその力を緩めなかった。 それはトラウマめいている。彼のそれまでを考えれば無理もない。 ひどく怖れるんだ。役に立てないことと、失望されること。それから、嘘を吐かれること。信じた人に裏切られること。 一番ひどい傷つけ方だと自覚していた。 他に方法がなかった。 彼なら、きっと分かってくれるはず。 たった一言で問題から目を背けて来た。そのツケがこれだ。 彼は、ただ淡々と事後処理をこなしていて……子供の声は、もう信じられないと泣いている。 傷つけた。その傷を埋め合わせる言葉を、綱吉は持たない。 幼い背中を抱きしめる。 ゆっくり強張った背中を撫でる。やがて微かな嗚咽が漏れて、温かな涙が胸を濡らした。 胸に詰まっていたものを吐き出したら、それとともにほんのわずか、頭の中の熱が下がった。 そんな個人的な感情を優先できるような状況じゃなかったんだ。 それは、直接その時代を経験してきたから獄寺にだって分かっている。分かっているけれど…… 一人で取り残されるのだと思うと、目の前が真っ暗になる。 こんな思いを繰り返すなら、いっそ、特別になんかなりたくない。約束なんてしない。ずっと一緒になんて、そんな言葉は信じない。 オレは、ずっと一緒にはいられません。 そう答えればその瞬間から、オレは10代目と、一緒にいられなくなる。 心の奥底が、いやだと叫ぶ。 いつか、この人に置き去りにされるのがいやだ。いま、あの人と分かれるのもいやだ。 一緒にいたいんだ。やっとみつけた、自分だけの特別な人。オレの居場所。 願いは切実で、なのに到底叶うとは思えなかった。考えたくない。もう、なんにも。 獄寺は瞳を閉じる。 叫び疲れた身体がだるかった。ずるずると姿勢を崩したら、しっかりと抱え直される。獄寺のことは本人より良く知っているというように、その腕の中は居心地がいいばっかりだ。 束縛されるのは嫌いだ。命令されるのも、誰かの下につくのも。大人の男なんか最悪だ。 なのに、このまま一緒にいたいと思う。 額を預けた胸の心音を、頭上の静かな呼吸を、いつまでも聞いていたいと思う。 一緒にいたい。ただそれだけだ。 10年後の、あの殺伐とした世界で、自分がどれほど絶望したか。なのに、迷子の犬みたいに、思いはそこに戻って来てしまう。 一緒にいたい。このひとの特別になりたい。 本当は、信じたいんだ。 本当に、ずっと一緒にいたい。 言うだけ言って泣き疲れて、獄寺は目を閉じてしまった。 まるで嵐のような。 そうだ、毎日こんな風に振り回されていたんだっけ。ぐるぐるぐるぐる、オレの周りを空回りして。 綱吉は幼い日々を思い出す。 けれど、「ごめんね」なんて口に出来る幼さは、綱吉はもう失ってしまった。 「……あのね、獄寺君。」 声を掛けると、獄寺がぼんやりと目蓋をあけた。 灰銀色の睫毛は涙で濡れて光って、まるで雪が降りたようだ。人工物のような翡翠の目も虚ろで、焦点が定まらない。 その瞳を見つめて、綱吉はゆっくりと問いかけた。ちゃんと、彼の心に届くように、彼の国の言葉で。 Next 04 .09.09.15 Backindex |