ふたりの場所 -07- そして綱吉さんの話。 長い夜が開けた。 最早すっかりお馴染みになった規則的な電子音と、モーターのうなり声。 綱吉はゆっくり目を開ける。病室独特の白い光が目を射し、薄い消毒液の匂いが肺を満たす。 いつも通り、ベッドの上。 それから右隣に目を遣って、そこにやはりいつも通り彼の姿があったことに、心の底から安堵した。 「……獄寺君、」 「お目覚めですか。10代目。」 「うん。意識もハッキリしてる。無事みたい。」 ゆっくりと綱吉は記憶をたどる。 その日綱吉は、混乱を機に独立分離しようとしていた武闘派の一派との話し合いに赴いて、その席で乱闘沙汰になったのだ。護衛無し、一切の武器の所持は認めず。非公式の訪問のはずが、席に着く間もなく一発打ち込まれた。まあ、自分も防弾チョッキを着た上に拳銃を携帯していたのでそれはお互い様だが。 狙撃手の腕が悪かったのかそれが狙いだったのか、ともかく銃弾は左の太腿を貫き、交渉の余地無しと判断した綱吉はその場で実力行使に切り替えた。とりあえずその場にいたのを全員ぶん殴ってきたわけだ。 リングもボックスもなし、グローブのみでも制圧には3分もかからなかった。ボンゴレX世の健在を十分に見せつけて、その場を治めて車に戻ったところで、途端にクラリと来た。足だからと止血もおろそかに立ち回りしたのがマズかったらしい。そこから、記憶が無い。 「動脈とか掠めてたのかな。」 「なら、屋敷に着く前に失血死してます。血管が破れたのは事実ですが。その後、出血性ショックで一時心肺停止状態に。」 「うわ。あっぶな」 綱吉は思わず他人事のような声を出した。隣人が静かに息を吐く。 「いずれにしても、ご無事で何よりです。 待っていてください。今医師を呼んできます。念のためもう一度精密検査を。」 スツールから立ち上がると、かたんと乾いた音がした。 「……行くの?」 「仕事があります。」 「オレと話す時間も無いほど?」 視線が絡み合い、それは一方的にするりと振り払われた。 「……ぜんぶ片付いたら、後ほどゆっくり。」 「片付きそうになったら、他所の部署のまで首突っ込んでまた仕事増やすくせに。獄寺君、片付ける気なんか無いんじゃん。」 言葉に詰まる。 それは言い当てられたからではない。今までずっと互いに気付かぬフリをしていた場所に綱吉がついに踏み込んだからだ。 表情を強張らせた隼人に、綱吉は更に言葉を投げつける。 「獄寺君の意地っ張り。」 「な、」 「意地っ張りの見栄っ張りの強がり。」 臆病者のこわがり。は、可哀想なので言わないことにした。 「10代目、ご自分が…… 何をしたかわかっておいでですか? それでその言い様ですか?」 「うん。」 あっさりと肯定する。 それだけで隼人の表情は色を失ったが、次の言葉はさらにその顔を青ざめさせた。 「わかってるから、オレが折れる。ごめん、獄寺君。話がしたいんだ。」 座ってよ、と袖を引く。隼人は立ち尽くしたまま動かない。もう一度力を入れてひくと、隼人の身体は人形のようにかたんとスツールに落ちてきた。 「こっち見て。」 声には反応しない。隼人は俯いたままベッドの足元を見つめていた。珍しく 綱吉はその姿に躊躇する。 どうやって伝えるべきか、言葉が見つからない。この期に及んで、自分の意気地のなさに歯噛みする。 結果、沈黙の中、先に言葉を発したのは隼人のほうだった。病室のタイルに視線を落としたまま、ぽつりと口火を切る。 「今回の件は、10代目がどこにおいでになるのか把握していなかったオレの責任です。あそこに不穏な動きがあるのはわかっていましたから、お止めしていればこんな事態には。 今後は、10代目のお考えはお言葉になさらずとも察知できるように努力します。ですが、それには限界があります。至急、信用のおけるものを手配しますから、もし単独で行動なさりたい時はそれに 「ちょっと、待った。」 無機質な声を遮る綱吉の声は、自然と鋭くなった。 「獄寺君、それ何の話? 連絡係置くから、話したくなけりゃそれに言えって?」 「今回で二度目です。必要でしょう。」 隼人は膝の上で組んだ手を見つめ、ぴくりとも動かない。 綱吉は、その言葉が信じられなかった。自分の唇が、驚くほど冷たい声を発する。 「 凍り付いたような問いかけに、やっと隼人は反応した。 「それは……」 冷たいポーカーフェイスが一瞬揺らぐ。 苦しげに眉根を寄せ、ちらりとほんの一瞬、綱吉に目を遣った。だが、それはまたすぐ離れていってしまう。 「それは、周囲が勝手にそう呼んでいるだけです。こんな状態で、そんなの 不意に長身が大きく傾いだ。 両肘を突き、口元を隠すように目頭を押さえる。眉間に苦悩の皺を刻んだまま、隼人は目を伏せる。 「そんなの、名乗れない。」 「っ、なんで、」 問い質す綱吉の声が上擦った。 こんな話がしたかったんじゃないんだ。なんで 「なんで獄寺君いっつもそう突拍子もないんだよ。ちょっと重なっただけだろ。あれはオレが 「そんなんじゃ、ないんです。10代目、オレが……」 綱吉の声は遮られる。隼人は肩を落とし、ついに完全に両手で顔を覆った。 「オレが、こんなんじゃもう 獄寺隼人にとって、沢田綱吉は世界の全てだった。 そこから全てが始まったから、自分が手に入れたものは全てそこに還した。 世界の始まりで世界の終わり。生きている意味で生きる目的。漠然と、しかし切実に、その人が居なくなったら自分の世界も終わるのだろうと思っていた。 おれの、すべて。なのに 居なくなっても朝は来た。 朝が来て、街も屋敷もひどい惨状で、頭を失った組織は文字通り頭部を断ち切られた大蛇のようにのたうち回った。 悲鳴を上げるから、防衛線を敷く。本当に守りたいものはもうその内側にはいないのに。分断した拠点は捨て、人員だけ回収して再編成する。これ以上の被害は出ないように。誰一人欠けることがないように。 誰が死のうが悲しむ人はもういないのに、地図の上で孤立した拠点に赤で×印を書き込もうとすると、胸の奥でその人が悲しんだ。はっきり声が聞こえたから、動ける奴を探して部隊を編成して回収に向かわせる。人が足りなければ自分で率いた。 救出じゃなくて、回収だ。動ける奴なんて碌に居なかった。両手に死体か肉体かわからないものを抱えてただ歩く。疲弊した身体は追撃者の炎の気配をつい勘違いする。振り返って落胆して、嘲るように笑いながら撃ち落とす。暴発して自分に当たれば良いと願うけれど、叶わない。 衝撃波のあおりを食らって噴煙が立ち上る。立ち尽くすのは、その向こうにそれでも姿を探しているからだ。足元のうめき声で、自分が夢を見ていたことに気付かされる。 食べて寝ないと動けなくなるのは身に沁みていた。味のしないものを胃に押し込んで目蓋を閉じた。今まで何度諭されても出来なかったのに、記憶の声には素直に従えうことが出来た。 考えたくなくて、きつく目を閉じる。目蓋の裏にその姿を探す。けれど、その願いさえ叶わない。瓦礫の上ではあんなに何度も気配を感じたのに、夢にも見ないまま、また朝が来る。何度も何度も、その繰り返し。 世界の全てだったはずなのに、その存在が抜け落ちても、世界は変わらずそこにある。 薄情だ、と思った。 なんだ。全部、馬鹿げた忠誠ごっこだったのか。 「……だから、きっと、オレにはどうでもいいんです。 あんたが死んだのも、生きてたのも。本当のことを教えてくれなかったのも。そんなんじゃなくて、オレは、」 長い指が強張り、きつく顔を覆う。生来の白い肌が血の気を失って氷のような色になる。 「オレは、あんたがいなきゃ、生きていけないと思ってたのに。なのに、オレは一人でも全然普通に仕事してて。 もう居ないのに、なんで生きていけるんだろうって、考えんのはオレのことばっか。ちゃんと、悲しむことも、出来なくて。涙だって、出なくて。他の奴らはあんなに、泣いてたのに。だから、帰って来ても、喜ぶ権利なんか、ない気が、して。」 もう声は裏返らない。しゃくり上げることも語気を荒げることもない。途切れようとも、ただ淡々と、彼は語る。 「何も言えないまま、また撃たれたって聞いて。病室で、死んだみたいに眠ってるのを見て、なのにオレは、このまま目を覚まさなくても、生きてても死んでても、オレは、生きていけるんだって。もう、ちゃんと心配することも、出来なくて。オレの。ぜんぶだったのに、いつの間に」 静謐の中、彼の指の間から、ぽたりと一つ雫が落ちた。 「いつの間に、オレは、あなたを裏切って なんだ、と綱吉は思った。 なんだ、そんなことか。そんな理由で避けていたんだ。 綱吉は安心し、同時に彼を愛しいと思った。 ああ、こんなに苦しめて、いいように造りかえて。それで愛してるなんてオレはまるで悪魔みたいだ。 そして、綱吉はくすりと笑う。 実際、悪魔なのだ。指先一つで、生かすも殺すもオレ次第。なんてひどい奴。 「だって、オレがそうしたから。」 けろりと言い放つと、隼人は驚いたように顔を上げた。長い睫毛を涙で濡らしたまま、翡翠の瞳が呆然と綱吉を見つめる。 「オレが、君をそうしたんだよ。 10年がかりでオレの大事なもの全部獄寺君に教え込んで、獄寺君が、オレ無しでも大丈夫なようにしたんだ。 獄寺君の所為じゃないよ。オレがそうしたんだ。」 人差し指で、その心臓を指す。その身体も心も全て、所有権は自分にある。 ああ、ほらやっぱり。まるで悪魔のようだ。 「獄寺君が一人で大丈夫だって知ってたから、オレの大事なものちゃんと守ってくれるってわかってたから、安心して後のこと任せたんだよ。」 呆然と、自分を見つめる男を抱き寄せた。 『獄寺君が、オレのこと嫌いになったんじゃないよ。』 言い聞かせると、彼は腕の中でかすかに身を震わせた。 それは否定なのかそれとも頷いたのか、綱吉にはわからなかった。 タマゴから孵るように隼人が体温を取り戻していく。 それを心地好いと思う。 世界で一番、居心地のいい場所。 「あのさ。オレ、さっきまで夢見てたんだよね。 倒れたなーって思って目を覚ましたら、オレ、並盛町にいてさ。しかも中学の頃の。 なんだか懐かしくて、もうマフィアなんかうんざりだし、このままここにいて全部なかったことにならないかなって思ったんだけど。」 どうしてかなあ、と綱吉は呟く。 「なんか、戻ってきちゃった。オレの場所はここみたいだ。」 ぎゅう、と腕の中の体温を抱きしめる。それだけで、胸の中がふわりとあたたかくなる。 どうしてじゃない。そこがオレの場所だから、戻ってきたんだ。 「……隼人。」 一番大事な名前を口にする。一度口にしたら、もう傷つけるかもなんて考えられなくなった。 その名を呼びたい。言いたい言葉は次々と溢れてきた。 「隼人、ただいま。置いてってごめん。会いたかった。それと、黙ってたのもごめん。本当は言いたかったし助けて欲しかった。あと、心配かけてごめん。 最初に、帰って来たときにすぐに言えば良かったんだ。隼人、ごめん。愛してる。」 途端、腕の中の隼人がびくんと跳ねた。振りほどくようにして距離を取ったその顔は真っ赤に染まっている。 「はっ……反則です!」 「反則?」 「名前で呼ぶのも今更謝るのも、全部です!」 「許してくれないの?」 「許すとか許さないとか、そう言うんじゃ、」 「じゃあなに? 隼人。」 ずいと一歩顔を寄せると、隼人はしどろもどろになって舌を噛んだ。 「…っ、だっ、だから、その呼び方……! 今は、」 「じゃ、いつならいいの? ベッドでやり直す?」 予想外の鈍い音が病室に響いた。綱吉は衝撃に頭を抱える。 「い……った! 殴った? 今、獄寺君オレのこと殴った!?」 「殴りましたよ! 謝りゃ済むと思ってんですか? 勝手に死ぬし、かと思ったら生きてるし! しかも裏でヒバリのヤローなんかと手組んでるし、挙げ句また勝手に動いて撃たれるし! どんだけ心配かけりゃ気が済むんだって、いっぺん殴ってやりたかったんですよ!」 語気が荒い。右手は握りこぶしのまま。連打されたらどうしよう、と、ちょっと綱吉はわが身を心配した。そおっと問いかける。 「……気が済んだ?」 「済みません!」 「心配した?」 「しないと思ったんですか!?」 「悲しかった? 泣きたかった?」 矢継ぎ早の問いかけに、うぐ、と隼人は言葉に詰まる。 「オレに会いたかった?」 「……会いたく、ないわけ 言葉は途中でせき止められる。綱吉の指がそっと隼人の唇を塞ぐ。 視線が絡み合う。今度は、もう振りほどかれたりはしない。どころか、離すまいと強く引き合う。 「……隼人、」 そっと乾いた唇をなぞり、俯かせる。されるがまま、隼人は瞳を伏せる。かわりに薄く開いた唇の奥で、赤い舌先が物欲しげに閃いた。 そっと頬を寄せる。唇が、触れる、その寸前で、 「……あのオレ!仕事が!」 綱吉は思いっきり吹っ飛ばされた。 痛いと呻く姿には目もくれず、獄寺は勢いよく立ち上がる。 「ぜんぶ片付けてきますから、話は今夜ゆっくり!」 赤い顔のまま、隼人は手の甲でごしごしと唇を拭った。 「それとあと、明日は休みますから! 部下も全部休ませます。ウチの連中はここのところ働き詰めだったし。それで10代目も、明日はゆっくりご静養頂いて、その、」 「うん。待ってる。」 言わなくてもわかってる。 そんな笑顔に隼人はますます顔を赤くし、それを振り切るように、では失礼します!と大声を出した。踵を返し、大股でドアに向かう。 「あ、ねえ獄寺君。」 呼び止められて、長身が振り返った。その姿は、もうすっかり『右腕』の顔を取り戻している。取り戻しているから、また揺さぶりたくなる。 「ねえ、いってらっしゃいの挨拶をしたいんだけどさ。大好きと愛してるとどっちがいい?」 大理石のような美貌がまた真っ赤に染まるのを見て、綱吉は笑った。 「選べないならどっちもあげるから。ねえ、どっちがいい? 獄寺君。」 こんどこそ、おしまい。 .09.09.27 Backindex |