ミルクと蜂蜜



 オレとアイツの話をしろ、と言われても、ガキのころからの付き合いだ。長くなるから、適当に端折るぞ。いいよな。
 ああ、そう。アイツとは本当にガキのころからの付き合いなんだ。オレが物心ついたときには、アイツはウチにいた。
 オレの家はあのちっぽけな島じゃ一番マシな家だった。納屋から麦の蓄えがなくなった事もないし、船も農具も、いつだってピカピカに手入れされていた。親父は何人もの人を使って、村の顔役ってヤツだった。だから、オレともオレの親父とも母親とも似ても似つかないアイツが、うちの屋根裏に部屋を与えられて養われていても、オレは少しも不思議に思わなかった。
 きっと、うちの村の誰かが養いきれないだか死んだかで、うちに預けたんだろう。けど、そんなのは関係ない。髪の色が違っても目の色が違っても、オレには最初っから、アイツはオレの弟だった。

 なんて言えりゃ、格好もつくんだがな。本当を言うと、最初はオレだって、アイツの事をただの都合のいい弟分だと思っていた。アイツが普通のガキじゃないって知ったのは、オレのたった一人の弟になったのは、オレが8つで、アイツが6つの時だ。
 なんでそんなことになったのかは忘れた。季節は冬で、オレとアイツはうちの村のちっぽけな桟橋に遊びにきていた。で、オレはそっから海に落ちた。
 …………だから忘れたっつってんだろ。ああ、ああ、わーってるようるせえな。
 そうだよ、オレはガキのころから割りと考え無しだった!
 ともかく、オレは海に落ちた。冬の海だ。その日は凪いでいたけれど、それでもぞっとするほど冷たくて、おふくろに着せられた手編みのセーターにはあっという間に海水が染み込んで、いくらオレでもすぐに、これはやべぇってのがわかった。
 周りに大人はいなかった。男達は漁に出てたし、女達は遠くの浜でにぎやかに喋りながら日々の仕事をこなしている。桟橋じゃアイツが真っ青な顔して、四つん這いになって食い入るようにオレを見つめいた。桟橋から海面までは、子供じゃ手の届かない距離だ。
 ほんとまじで、ヤベェって思ったよ。こりゃ死ぬかもなって。
 でも、ともかくその場にはアイツしかいなくて、オレは海面から顔だけ突き出した状態で叫んだ。
「心配すんな、泣き虫ジョット! オレは平気だから、お前行って、誰か大人呼んで来い!」
 ジョットは、まんまるに見開いたままの目を一度だけ強く瞑った。それから立ち上がって、もう一度瞳を開いた。
 今でも、あれは見間違いだったんじゃねーかって思うよ。だってありえねーだろ。目が金色に光るなんて。それとあと半分は、そうだったらいいっていうオレの願望なんだろう。
 けれど確かに、もう一度見開いたとき、アイツの目は見た事もない色に光っているように見えた。全部灼き尽くすような、燃える金色。
 でも、確かめることはできなかった。
 立ち上がった次の瞬間、アイツは今まで聞いた事もないような大声で浜に向かって叫んだ。
「誰か来て!! 溺れる!!!」
 そうして叫ぶと同時に、アイツは海に飛び込んだ。
 ほんっと、何やってんだこの馬鹿! って思ったぜ。
 8つと6つだから、そのころはオレのほうが体はずっとでかかった。……いや、今でもオレのほうがでかいけどな。おまけにそのころ、アイツは今とは比べ物にならないぐらい鈍臭かった。泳ぐ事もできなかった。結論。オレだって溺れかけてんのに、あいつが飛び込んで助かるわけがない。助けられるはずもない。
 死ぬだろこの馬鹿チビ!!!
 そう思ったのまでは覚えてる。あとはもう、死にものぐるいだった。
 凍えてギシギシいう腕で波を掻き分けて、アイツのところに辿り着いた。立ち泳ぎもできずにゲホゲホ水吐いてるアイツを片腕で抱えて、オレ自身半分沈みながら辺りを見回した。偶然、桟橋から一本もやい綱が垂れてんのが目に入った。必死で手を伸ばしてそれを掴んだ。
 指がかじかんでじりじりした。もう片腕では、アイツが溺れかけてゲホゲホ水を吐いてる。抱え直してやらないとと思ったけど、冬の海だ、凍えて腕に力が入らない。ロープ一本に掴まってるので精一杯で、それだって、いつまで保つわからない。ずるずる手が滑って、麻の繊維が指を刺して、けど、その痛みもどんどんわからなくなっていく。冷たい波に揺さぶられるまま、必死で助けが来るのを待った。
 ゴボ、と嫌な音で海水を吐いて、腕の中でもがいてたアイツが急に大人しくなった。限界だってのはガキのオレでもわかった。
「おいジョット! しっかりしろ、このバカ!」
 叫んだつもりだったけれど、もう身体の芯まで凍えてて、歯の根が震えて、言葉にならない。二人分の体を抱えて綱を握る手も、がくがくと震えて、かじかんで、感覚がない。
   死ぬかもしれない。
 そう思った時だった。急に、腕の中が暖かくなった。冷たい水の中なのに、あたたかな暖炉を抱いているような感覚。
 暖かいのは、ジョットだった。オレの腕の中で、まだ生きてる。
 助けなきゃ、と思った。オレが助けなきゃ死んじまう。
 かじかんでたはずの腕に力が戻った。渾身の力でロープに縋って、オレは二人分の体を海面から引き上げた。桟橋の上をバタバタと、大人たちが駆けてくる音が聞こえた。
 そうして、オレたち二人は奇跡的に助かった。


「なんでこんなことをしたの!? 子供だけで海に近付くなっていつも言っているでしょう!?」
 濡れた服を脱いで毛布にくるまって、暖炉の前で未だ歯の根をガチガチいわせてるオレたちに、おふくろが金切り声をあげた。
 うちのおふくろは一人息子のオレに過保護で、口やかましかった。オレはまだ凍えているふりをして答えなかった。涙目で心配している母親が気恥ずかしかったのもあったし、当時オレは村のガキ大将というヤツで、親父のあとを継いで村の顔役になるものだと大人も子供も誰もが思っていた。だから、遊んでいてうっかり落ちた、なんてとてもじゃないけど言えなかった。今にして思うと、くっだらねープライドだけどな。
「……おばさん、ちがうんです。」
 黙りを決めたオレのかわりに、なぜか、チビのジョットが口を開いた。
「ちがうんです、オレが先に溺れて、助けてくれたんです。だから……ごめんなさい。」
 居合わせた皆が、なんだそういう事かと口々に言った。誰かがよくやったとオレの頭を撫でた。おふくろも、まあそうだったの、と毛布の上からオレの身体を抱いた。自慢の息子だ、と、もみくちゃにしてくる母親の腕のなかから、オレはアイツを探した。毛布にくるまっただけのアイツは、まだ少し青白い顔をしていて、けれどオレを見て確かに、にこ、と笑った。これでいいんだと言うように。オレは、呆然と見詰め返すだけで、何も言うことができなかった。
 そうしてその日の夜から、アイツの部屋は、うちの屋根裏から、離れの納屋の屋根裏に移された。


「あいつまだ熱があるんだ! 引き上げたとき、あんなに熱かっただろ、気付かなかったのかよ!?」
 おふくろは自業自得だと聞く耳持たずだった。オレのほうは晩にはすっかり回復していて、けれど、先に海に落ちたのがオレだとはまだ言えずにいた。
「あの子はお前とはちがうのよ。ほら、いい子だからこれを飲んで、今日は早く休みなさい。」
 押し付けられたのは陶器のカップに入った蜂蜜入りのホットミルクだった。
 うちの島は貧しい。牛の数は多くないし、蜂蜜は島じゃ採れない交易品だ。だからなのかおふくろは、これさえ飲めば大概の病気は治ると思っていた。オレが具合が悪いとすぐにこれを作ってきた。その頃にはもうおせっかいと思うようになっていたけれど、ガキの頃は結構好きで、時々仮病を使ってねだって飲んでいた。
 作られるのはいつも一杯だけだった。その日も、カップは一つしかなかった。
「部屋で飲む」
 カップをひっつかむと、オレは部屋には戻らずこっそり家を抜け出して、離れの納屋に向かった。


 屋根裏部屋は無人で明かりもなかったけれど、ジョットは起きていた。オレに気が付くと粗末なベッドの上で体を起こした。
「熱、下がったか?」
 額に手をやる。海中で感じたあの炎のような暖かさはなかったけれど、それでもやっぱり、まだ額には熱があるようだった。
 平気だよ、とアイツは言った。それが熱の事なのか、寝床を移された事なのか、アイツが嘘をついて庇ってくれた事なのか、どの事なのかオレにはわからなかった。正直、今でもわからない。
 ……そうだな。最近急にふてぶてしくなった気がしてたけど、やっぱ、アイツは昔っから勝手だったんだな。
 ともかく、8つのオレは何も言えなくて、かわりにアイツにカップを突き出した。
「これ、やる」
 ジョットはしばらくあたたかな湯気を立てている乳白色の液体をみつめていた。それから両手でそのカップを受け取って、一息に飲み干して、おいしい、と言った。
 それが、オレはアイツを弟だと思った日の話。
 ああ、やっぱり長くなっちまったな。だから言ったろ、あのバカとは付き合い長げぇんだって。
 アイツが弟じゃなくなった日のことは、じゃあまた、そのうち気が向いたらな。





10.04.01.
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