薄紙の火はわが指を少し灼き、04 「…………じゅーだいめ……?」 まだ、そんな風に呼ぶんだ。 カーテンの透き間から月の光が差し込んで、獄寺君の顔を冷たく照らしている。髪も肌も瞳も、金属みたいに濡れた銀色だ。光を反射して静かに光っている。 冷たい光だ。 彼は、春の炎に焼かれてなんていなかったんだ。声が掠れてすらいなかった。ああ、オレだけだったんだ。 ずるい、よなぁ。やっぱり、獄寺君はずるい。 冷たい目がオレを見ている。 ついに、失望したかな。 オレは悲しくて情けなくて、でも頭が熱くてくらくらして、だから悲しいを通り越していっそ我侭な気分だった。 春の炎はオレの中にあったんだ。白い蝶が、花びらが、頭を真っ白に埋め尽くして何も考えられなくなる。 だって、オレはそんな生き物じゃない。君が勝手にそんなのにしたんだ。 オレは、そんな特別な生き物じゃないんだよ。 獄寺君がぺたんとベッドの上から床に腰を下ろした。 同時に、膝を突いていたオレの腰に手をかけて、立ち上がらせた。 「な……」 なにするの? 声がでなかった。オレの喉は炎で焼けて、からからに渇いていた。 彼は、何も言わずにオレのベルトに手をかけた。彼のとは違ってひどく簡単な作りのそれは、音すら立てずに外れて落ちた。 ふとももにひやりと風を感じた。長い人差し指が下着の中に差し込まれて、それを引き釣り出した。 冷たい。 外気に触れて、一瞬冷える。けれどすぐに内側の熱がそれを忘れさせる。右手の指が絡み付く。 ぞくりと疼いた。背筋が、両足の付け根が、腰の裏側が。 本当はどこなのか、何が原因なのか、わからなかった。身体の奥が唸りをあげて、また一段体温が上がる。身体から汗が噴き出した。 「ごく、でら、くん。なにを……」 どうにか、声が出た。獄寺君は構わず左手もオレに添えた。 白い細い長い指が、絡み合って纏わり付いて、きゅうとオレを扱き上げた。背筋が震えて、横隔膜がはねた。 「なに、する……」 間抜けな質問だった。 それをするにきまってる。さっきオレだってやった。というか、オレが先にやった。でも……。 白い肌が直接オレに触れている。 さっきは、息も詰まるぐらいきつく引き上げたくせに、今度はそっと、その内側にひそむものを確かめるようになで上げられる。小さな凹凸の一つ一つまで、丹念に辿るように。 触れられているのはそこだけなのに、まるで体中を探られているような気がする。身じろぎしたら、シャツが背中をかすめた。それだけで、ぞわっと体中の毛が逆立つような、その感覚。 まだ慣れないけど、もうとっくに知ってる。覚えてる。だから、次を求めて皮膚が張りつめていく。 息が、声が、溢れて出そうで、オレは天を仰いだ。喉を反らせば、まだ、どうにか押し止められる。体中を駆け巡って、飛び出そうとするそれを。 引きずられて口が半開きになる。閉じようとすると余計なところにまで力が入って、またそこが膨れ上がった。これじゃ閉じられない。開けたままの口から、荒い呼吸の音がする。はっ、はっ、と自分でも吐いてるのか吸ってるのかわからない、犬みたいな呼吸だ。 目が回る。きゅう、と身体の中心を引き揚げられて、そこから全部抜き取られてしまいそうだ。 ああ、やばい。こんなのは、へんだ。だって、こんな風に気持ちがいいのは絶対へんだ。 体が熱い。喉がからからに干上がって、なのに肌の上には水の気配がある。汗をかいている。シャツが擦れてひりひりする。目からは涙が出そう。そうだ、オレ泣きそうだ。 ダメだ。 くっきりと言葉が心に浮かんだ。 それだけは止めなきゃ。 考えは、あとから追いついてくる。 ……なんで……? 身体は相変わらず熱くて、まるで心臓が燃えているみたいだ。 吐き出された血がごうごうと頭に送り込まれて、真っ白に燃やし尽くして、たった一カ所に流れ込んでいく。だめだ。なんにも考えられない。 なのに、ココで涙を流すのはダメだと、それだけははっきりと思った。 獄寺君は、泣かなかったから。 たった一滴、冷たい涙しか零さなかったから、だから、オレは泣いちゃダメだ。 彼の涙が何だったのか、オレが泣きそうなのはどうしてなのか、そんなのわからないけど、でも、ココで泣くのは絶対ダメだ。だって、獄寺君は、泣かなかったから。 涙腺をぎゅうと結んだら、かわりに喉の奥からハ行の音が漏れた。まるでオレの声じゃないみたいな、いかにも、そういう声。 膝から力が抜ける。崩れ落ちそうになる。 獄寺君の指は、白くて長い。オレより大きいのにオレより細くて骨張っている。裸の右手がオレを追い立てる。ところどころ火傷の傷がある、だけど滑らかな肌が、そっとオレの細かな襞を摩擦していく。一つ一つ、数え上げられているようで、その度にひくっびくっと身体が跳ね上がる。もう自分じゃあ止められない。おちる。 追い詰められているんじゃなくて、支えられてるのかもしれない。彼の手の中で。でも、肺も心臓もこのままじゃ死んじゃいそうだ。 右手の上から覆いかぶさった左手が、オレを締め付けて、ほんのちょっとの躊躇もなくオレを扱きあげる。時々、指の合間から生温い銀のリングがオレを擦る。それだけは、絶対にオレにはないもの。 これは、オレの手じゃないんだ。これは、獄寺君の手だ。 そう思うとまた身体が熱くなる。 ああ、お願いだから、はやく……。 オレはまた、情けないことを言いそうになる。 だって、こんな風にされた経験なんかない。こんなに必死に我慢したこともない。 出してしまいたい。出してしまいたいけど、これはオレの手じゃなくて、獄寺君の手で、だから……。 どんなに言い募っても、今にも限界がきてしまいそうだった。 オレは一度唾を飲み込んで、それからちらとオレの下半身に目を遣った。 真っ先に目に飛び込んできたのは、少し乱れた獄寺君の髪だ。それ自体が光を放っているような、柔らかな銀色。それが、ゆっくりと、両手で包んだそこに近づこうとしていた。 スローモーションで線の細い顎が下がっていく。赤い舌が覗く。唾液で湿っているのか、唇がてらてらと光っている。 それはゆるゆるとオレに近づいた。包み込んでいた手が外される。濡れた息が肌に触れる。 それだけで、オレのからだはびりびりと震える。獄寺君が、ついにかぱりと口を開けた。暗闇でもはっきりと、赤い舌が光っている。綺麗な赤い三角形。彼の吐息がオレを濡らす。ほんの少し、ざらついた舌先が、近づいてくる。オレに触れることを思う。それだけでぞくぞくと体が震える。 けど。 「……だ、め」 オレはどうにか息をつないで、声を振り絞った。 「それは、ダメ。だってオレ、そんなこと、してない。」 獄寺君が、オレを見上げた。 オレは目を反らしたかった。 きっと軽蔑か失望か、そうでなきゃ一番残酷な、いつも通りの、「10代目」に向かう真っすぐな目が、そこにはあるはずだから。 獄寺君が顔を上げる。 予想は、どれも外れていた。獄寺君は、淡い緑に濡れた目で、静かにオレを見上げていた。瞳はまだ涙で潤んでゆれていたけれど、明確な意志がそこにはあった。 「それには、従えません。」 その声は真っすぐにオレに届いた。 微かにかすれていた。初めて聞く静かな声だった。だけど、今まで聞いたどんな言葉より、真っ直ぐにオレに届いた。 「オレは、あなたとは違いますから、同じようになんてできません。」 なんでそんな目で、そんな事言うんだよ。そんな静かな声でそんな事言えるんだよ? 聞き返したかったけど、ドロドロしたものがオレの喉を塞いでいて声にならなかった。 彼が囁くだけで、温かな吐息がオレを濡らして炎を煽る。気が変になりそうだった。ううん、とっくになっていた。 こういうのを、欲求っていうんだ。 腰の裏側にぞわぞわと蠢く何かがいて、オレの身体を前に突き出そうとする。 だめだ。そんなことは、しちゃだめだ。そんなことはさせちゃだめだ。 オレ達は、なにも違わないはずなんだ。少なくともオレは、君に一方的にそんなことを、してもらいたいなんて思ってないんだよ。 でも、頭はくらくらして、胸が苦しくて、オレはたった一言しか言えなかった。 「……………っ……だめ、だから。」 獄寺君は、口を閉じた。 口を閉じて目を伏せて、そっと、オレの根本に手を当てた。ゆるゆるとそこに顔を近づける。 長い睫毛が一瞬オレの内股を引っ掻いた。それ自体ぼんやり光っているような、彼の髪がオレの肌を刺した。絹糸のように細いのに、窓から射す月の光より柔らかいのに、オレの肌は針で刺されたようにひりひりと焦げていく。オレは必死で息を飲んだ。 「っ、だから……だめ、だって……」 彼はお構いなしに顔を寄せた。オレは身を固くした。目をつぶる。くちゅ、と濡れた水の音。けれど。 けれど、オレはなにも感じなかった。オレ自身の生温い体液と、彼の汗ばんだ冷たいてのひらの他は、なにも。 オレはそおっと目を開けた。彼は、オレの肌の上に自分の手を重ね、その手の甲に、キスをしていた。 赤い舌が、薄い唇から突き出される。ゆっくりとゆっくりと、自分の手の上から、彼がオレを嘗め上げる。触れてなんていないのに、だから余計に、オレは、頭がくらくらして、叫び出しそうになる。 手の甲が唾液で光っている。舌先がそれを舐めとる。もう一度口付けて、くちゅと音を立てて吸い取って、そうして彼は、やっとオレから顔を遠ざけた。 その途中、ほんの一瞬、彼は上目使いにオレを見た。淡い緑の瞳が暗闇できらりと光った。 濡れているように見えた。泣いているようにも見えた。ひどく、悲しそうにも。 腰の裏側が疼いている。そんなのはダメだと思いながら、オレは想像してしまう。彼の口の中を、赤い舌を。 もしかして、彼もそうなんだろうか。 まさか、そんなわけない。オレはそんな事望んでない。獄寺君にそんな事させたくない。獄寺君だって、オレが10代目でなきゃ、そんな事したくないはずだ。 なのに、オレの心は勝手にあたたかくてやわらかなものを想像する。彼の目を悲しそうだなんて見る。物欲しげだなんて思う。 まさか、そんなわけないのに。そんなの間違ってるはずなのに。どうしても、否定しきれなかった。 ほんとうはおんなじなのかもしれない。 オレ達は、本当に、同じなのかもしれない。二人とも、春の炎を宿している。 身体が熱いんだ。まるで、身体中、火がともっているように。彼もそうなのかも知れない。冷たい水に濡れているんじゃなくて、熱い炎で熔けているんだ。この世のどんな物質も、高温になると必ず液体になるんだと、昨日獄寺君が教えてくれた。 オレ達は、春の炎で熔けているんだ。 彼の手が再び動き出した。オレはもう、どこに頼って踏み止まればいいのわからなかった。 親指の腹で裏側をなぞり上げられる。んぅ、となさけない声がもれる。一度反った背が今度は丸まる。 そこに彼がいる。オレの視界の真ん中に。一番近くに。 その肩に、手を置けたらどんなに楽だろう。 だってもう足に力が入らない。この身体を預けられたらどんなに楽だろう。その髪に指を絡めたらどんなに気持ちいいだろう。 だけど、獄寺君はそんなことはしなかったから、オレは、必死でオレの手を押さえつけていた。 彼の手は白いシーツをぐしゃぐしゃと握り締めているだけだったから、オレも、制服のシャツの裾を掴んで、声を出さないように、せめて最後まで立っていられるように。そう思いながら短い呼吸を繰り返した。 力が抜ける。 たった一カ所を残して、身体が消えてしまったような気がする。そうじゃなきゃ、そこを中心に弾け飛んでしまったんだ。 残っているのはたった一カ所だけ。彼の手の中に溜まって、今にもはちきれそうに出せ出せって騒いでいる。 ひゅっと短く息吐いた。反動で吸い込まれる酸素とともに、どくりと心臓が跳ねた。熱いものが吹き出して、身体を焼き払いながらそこに向かう。 「…………っ、あ……!」 ついに声が漏れた。その瞬間、彼はぱっとオレの先端に白い紙をあてがった。 薄い紙が衝動を受け止めてくしゅりと潰れる。そのまま搾り切るように追い上げられて、身体が震えた。最後の一滴が落ちて、それと引き換えに、オレはやっと自分の輪郭を思い出せた。 さいごまで、立っていたのは、キセキ的だ。と。思った…… 。 まだぼうっとしているオレを他所に、獄寺君はテキパキとオレに服を着せた。 立ち上がって、自分のベルトを締め直す。そしてさっと身を屈めて、さらうように二つの白いティッシュのかたまりを拾いあげた。 そのまま真っすぐ窓に向かう。がらっとガラスを開け放つと、まだ冷たい夜の風が入ってきた。 風は冷たい。部屋は暗い。でも、夜の色はもう黒じゃない。 白い月が浮かんでいる。その周りは、濃い藍色。 これはもう、春の夜だ。明るい。明るく白く、ぼんやりと内側から光を放っている。月も、それに照らされた獄寺君の横顔も、二つの丸められた薄紙も。 獄寺君は窓から身を乗り出し、ライターを取り出した。キン、と金属の音がして、小さなオレンジの炎が生まれる。 獄寺君は、それを二つの紙のかたまりに近付けた。薄紙の端に小さな火が灯る。それは、あっという間に膨れ上がる。 炎の先が、ひらひらとおどる。揺れて、膨れ上がっては、その端から黒い燃えかすになって夜に紛れていく。生まれては春の空へ消えてしまう。 じっと覗き込んだ獄寺君の額が赤く照らされている。それだけが、炎が存在する証だった。確かに燃え上がったはずの炎は、あっという間に、彼の爪の先でオレンジの小さな点になってしまった。 獄寺君は、その小さな炎をぴんと弾いた。燃えかすは粉々に砕けた。小さなオレンジの点は藍色の夜を飛んで、すぐに窓枠からフェードアウトした。 その行き先を、獄寺君は追わなかった。小さな燃えかすには目もくれず、じっと指先を見つめていた。 火傷、したんだろうか。 オレは立ち上がり、ゆっくり窓辺に歩み寄った。 隣に立って、声をかけよう。 『指、大丈夫? 獄寺君って、いっつも怪我してばっかりだから……』 獄寺君はちらりとオレを見て、すぐに俯いた。一歩、距離をとる。オレから離れる。 二人の間をぴゅうとまだ冷たい風が通った。それだけで、用意していた台詞は吹き消されてしまった。 オレは何にも言えなくなって、獄寺君の方も向いていられなくて、窓の外に目をやった。 あの火はどこにいってしまったんだろう。彼の……オレたちの、火傷の張本人。 明るいオレンジはもうどこにも見当たらなかった。見下ろした、真っ暗なうちの庭にも、月に照らされた遠くの屋根の上にも。 あの炎は燃え尽きて、きっと消えてしまったんだ…… 「…………あ、」 オレは声を上げた。 明るいオレンジは見つからなかった。けれど、隣の庭に、静かに光る白い点を見つけた。立ち木の細い枝の先に花が咲いている。 「……、ねぇ、あれ!」 オレは遠い白い点を指差した。本当は、腕は凍り付いたみたいに重かった。無理矢理振り上げたから声が裏返った。けど、知らんぷりして続けた。 「なにかな、あれ。咲いてるの、気付かなかった。」 獄寺君が、顔を上げる。 「……あれは、梅です。」 そう言って、彼は、小さく笑った。 「ご存知なかったんですか。オレが最初に来た日には、もう蕾をつけていました。」 少なくとも、オレは、笑ったと思った。 「へー。知らなかった。もう、春だったんだね。」 「そうですよ。もう、ずっと前から。」 獄寺君は両手を窓枠につき、それを突き放すようにして勢いよく窓辺を離れた。 軽い足音でドアに向かって、パチンと部屋の電気を付けた。明るくなった部屋で、獄寺君がくるりと振り返る。 「じゃ、続きしましょっか。」 明るい蛍光灯の下で、そこにいるのはいつもの獄寺君だった。窓を閉めて、カーテンも閉めて、オレも春の夜に背を向ける。 「お次は国語の現代文です!」 元気よく、獄寺君は新たな教科書を取り出した。 オレのほうはあいかわらず、やる気はあるんだかないんだか。 「…………はーい。」 だけど、オレの足は真っ直ぐテーブルに向かった。 ばさっと教科書を広げる。偶然開いたのは、短歌のページ。座りながら、ぼんやりと文字を目で追う。 それは、こんな歌だった。 薄紙の火はわが指をすこし灼き 蝶のごとくに逃れゆきたり 意味は、ちっともわからなかった。でも……。 オレは目を閉じた。 オレの中で、春の炎が飛んで、燃え尽きるふりをして、逃げていった。 「10代目?」 「あ、うん。ごめん、なんでもない。」 それは本当に、なんでもない。 名前もない。テストで聞かれたって説明できない。たとえどんなに上手く説明できても、きっと正解にはならない。そもそも、問題にすらならないだろう。 でも、と、オレは思った。 でも、この夜を、たった二行のこの短い詩を、オレは一生忘れないだろう。 それは、オレの中にすむ春の蝶だ。 彼の指を灼いた火の羽だ。 これは、オレの中で燃える、誰のうちにも息を潜めている、春の炎のうただ。 作中の短歌は 斉藤史の歌集『ひたくれなゐ』より 引用しました。 backIndex .08.03.02 |