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「誰が嘘つきだって。おい。」
「……ごくでら、さん……?」
 気がついたら、ランボはボヴィーノの庭に戻っていた。
 明るい青空をバックにバラのつぼみが風に揺れている。庭の籐椅子にボスが座ってこちらを見ている。昼前の涼しい風がさやさやと木の葉を揺らす。
 しまった。10年前に行っているうちに、約束の時間を通り越してしまったらしい。誰だかわからないけれど、来客の予定があったのに……って、あれ?
 目の前にはスーツ姿の、ある意味当然なのだけれど大人の、獄寺がいた。
「お客様って、もしかして獄寺さん……?」
「指差すな。礼儀がなってねぇな、この田舎者。」
 ランボは驚いて、獄寺の顔とボスの顔を見比べる。
「もう一人は、ついさっきお帰りになられてしまったがね。」
 ボスの言葉で、ランボは状況を理解した。つまり、今朝のなぞなぞの答え。
 来客の一人は獄寺で、もう一人は10年前の自分だったのか。ボスは知ってたんだ。
「お帰り、ランボ。日本はどうだったかな?」
「あ、ええと。たのしかった、です。」
 ランボは大慌てで顔を拭う。立ち上がり膝を払う。
 改めてボスを見ると、膝掛けがぐっちゃぐちゃの皺だらけだった。5歳の自分が膝に乗って遊んだせいだろう。幸い、今日はひげが三つ編みになったり服に謎の落書きが描かれたりはしていなかった。大人しく膝の上で泣きわめいてあやされただけのようだ。
 ……とりあえず、5歳のときの変なところは見られずにすんだのかな。
 横目で獄寺の顔色をうかがうと、彼はすました顔で庭を眺めている。
 なんとなく視線の先を追って、明るい日差しの下にバラが一輪咲き誇っているのを見て、あ、とランボは10年後に飛ばされる前に任された仕事を思い出した。
「ごめんなさい、ボス。オレ、今お茶の準備を……」
 慌ててランボは屋敷に向かおうとする。すれ違い様、その耳元に獄寺が囁いた。
 恐ろしく品のない早口の日本語で。
「いらねーよ。てめーのいれた紅茶なんざ向こうで飲み飽きてんだ。わざわざこっち来てまでいるか。」
 ボスの前でまで、なんてヒトだろう!
 さあっと血の気が引いて、足が止まる。真っ青になったランボをよそに、獄寺は今度はにっこりと笑ってみせた。ボス……と、ついでにランボに向かって、改めてその口から紡がれたのは綺麗なイタリア語だ。
「俺には、どうぞお構いなく。」
「だそうだよ、ランボ。そう急がなくともいい。お前はまだ帰ってきたばかりだろう。」
「あ。ああ、えっと……、ハイ。」
 うわぁ、なんて子供っぽいヒトだろう! オレだって、最低限お客様の前とそうでないときと言葉を使い分けるぐらいはできるのに。
 ランボはこっそり獄寺の背中を睨みつける。
 ああ、やっぱりこの人はどうしようもないヒトだ。最悪の大人だ。最低だ。
 睨みつけた背中が、ふと何か見つけたように動いた。
「あーあ、あのバカ。」
 呟いたのは、また日本語だった。
「ちゃんと持ってけって言ったのに、やっぱボロボロ落っことして行きやがって。」
 彼は身をかがめ、庭に散らばっていた何かを拾い上げる。
「ついでだ。やる。」
 反射的にランボは手を出す。バラバラと手のひらに球形のものが降ってきた。それは淡い紫色のセロファンに包まれた何か。大きさはコイン程の……
「……飴?」
「ぶどう味の、お子様用のな。」
 この飴には見覚えがあった。
 そうだ、あのとき。
 胸の奥の記憶の手触りが、にわかに鮮やかになる。
 10年前のあの日、オレは大泣きしてバズーカを使ってボスのところに帰って、そうしたらそのヒトがいたんだ。両手にいっぱい飴玉をくれて、誕生日おめでとうって。
 オレはそれが嬉しくて、他の誰にもあげたくなくて独り占めしたくて、過去に戻ってからもツナやみんなから逃げ回っていて、それで結局誕生日は終わってしまったけれど、それから一週間も、ママンに毎日ハンバーグやオムライスやオレの好きなものいっぱい作ってもらって、日曜日にはみんなで遊びに行って……。
 そうだ、確かにあったんだ、オレの幸せな5歳の誕生日。
 その日よりずっと大きくなった手で、ランボは同じ飴玉を握りしめた。
 確かにあったんだ、オレの5歳の誕生日は。
「何泣いてんだよ、泣き虫。」
「な……! まだ泣いてません!」
 感傷に浸る暇も与えてくれないんだろうか。本当に、なんてデリカシーのないヒトだ。
 飴玉を握りしめたまま、ランボは袖口で目の辺りを擦った。
 あー、そー。馬鹿にしたように獄寺は言って、内ポケットから何かを取り出した。
「それと、ホラよ。こっちはテメーの分だ。」
「痛っ!」
 取り出した何かの角でおでこを突かれた。反射で涙がこぼれた。
 名誉のために言っておくとこれは痛みによる涙であって、断じて、なんかそう言う涙じゃない。オレが泣き虫なんじゃなくて、オレの周りがみんないじめっ子なんだ。ていうか限定一人が。
 思い出は美しいって本当だな。何をどう間違ってこの人を優しいと思ったんだ、5歳のオレ。修正しておこう、なんかちょっと残念だけど。
 その間も額になんだか尖ったものが容赦なく押し付けられている。痛い。てゆーか、いたい。
「いぅ、あの、獄寺さん? もうちょっと普通に渡してくださいよ!」
「はあ? 何だって? 聞こえね。」
「い、いたい、いたい、いだいぃ」
 ぐりぐり額に押し付けられるのを避けるようにしてもぎ取る。それは色とりどりの紙の束、手紙だった。
 裏に返して、送り主の名前を目にして、ランボは思わず高い声をあげる。
「ハルさんからだっ! 京子さんからも、イーピンからもあるっ!! あ、こっちは奈々ママンから!」
 日本からの、懐かしい人達からの誕生日カード。日付はどれもほんの数日前だ。
「これ、どうして、」
「どうしてじゃねーよ。」
 獄寺は相変わらず不機嫌そうにランボを見下ろしていた。
「こんなイタリアの僻地に日本から、しかも今時『紙』の郵便が、期日指定で届くわけねーだろ。一旦ボンゴレに集めるにしたって一般扱いじゃ検閲とかあるしよ。しょーがねーから手分けして回収して持ってきてやったんだ。感謝しろ。」
「あの、じゃなくて、なんで獄寺さんが……」
「仕事のついでだ。それと、10代目と約束が。」
 獄寺は一度言葉を区切ると、ぷいと目を逸らした。ぐしゃぐしゃと首の後ろを掻く。
「……と。『おたんじょうびおめでとう』?」
「うん!!」
 答えたら、げぇ、と獄寺が嫌そうな声を出した。
「てめ、素直にうんとか言ってんじゃねぇよ、ガキかっつの。」
「ガキですよ、悪いですか。」
「自慢気に言うな。あーもー、読んだらとっととしまっとけ、もう落としても拾ってやんねーぞ、この10年越しのアホ牛。」
 ったく、あーめんどくせー。
 また、こつんと獄寺はランボを小突いた。痛い。
 いや、ほんとはオレはもう大人だからちっとも痛くないんだけど、こういうのは痛いと言うのが礼儀だから一応言うんだ。いたい。
 手の甲でおでこをさすると、ボスが笑いを噛み殺したような声で獄寺に声を掛けた。
「なにやら、楽しそうだね。」
「いえ、お見苦しいところを失礼致しました。」
 急に獄寺の態度が切り替わる。助かった、とランボは思った。
「申し訳ありません、つい気が緩んでしまって。」
「それは褒め言葉と受け取っていいかな。」
「そう取って頂ければ、幸いです。」
「じゃあ、そうさせてもらおうか。」
 何の話だろうと思いながら、ランボはもう一度受け取った手紙に目を戻す。
 中を読むのはあとでにしよう。あ、イーピン字が上手くなったなあ。
「ところで、先ほどの件ですが、改めてお返事を頂けますか。」
「ああ。その条件で構わない、と、ボンゴレには伝えておくれ。ただし……」
「ただし?」
 二人が不意に沈黙したので、ランボは顔を上げた。
 ボスは膝の上に目を落としていて、右手で砂時計を玩んでいた。
 あれは、今朝ボスのベッドサイドで見た砂時計じゃないかな、とランボは思った。
 ついに砂は落ちきってしまったようだ。細いくびれの上半分は空っぽ。下半分は金色の砂漠。枯れた指先がその艶やかなフォルムをなぞる。
「ただし、私はね。あの子がここを出てそちら側に行けることを、本当に嬉しく思っているんだよ。」
 ボスは手を止めて、ひたりと獄寺を見据えた。
「ボンゴレとは……、いや、君たちとは、全く逆の見解だろうね。」
 ええまあ、と、獄寺は曖昧に躱そうとして、取りやめて口を結んだ。挑むように、年老いたボスを見つめ返す。
「はい。全く逆です。ボンゴレは……、組織ではなく、ボンゴレ10代目個人は、悲しみこそすれ喜んではいません。」
「ボンゴレ個人、か。じゃあ、君自身はどうだね?」
 獄寺の返答までは、随分長い間があった。
 ランボは飴をポケットにしまおうと思いついて(このままでは融けてしまう)けれど、なぜか動けなかった。手の中は汗をかき始めていた。ややあって、獄寺がゆっくりと笑った。
 確かに獄寺は笑顔を作っていた。目を細めて口の端を持ち上げて、確かに笑っているのに、ランボは怖いと思った。
 怖い。うまれてはじめて、ごくでらが、ほんとうにこわい。
「腹が立ちますね。俺なら。」
 ぶちりと引き千切るように、獄寺が答えた。ボスが笑った。は、は、は、と、ついに声を出して。
 ボスの年老いた身体のどこにこんな声が残っていたんだろうとランボは目を見張った。
「腹が立つ、か。そうか、結構。いい答えだな。うん。悪くない。」
 ボスは愉快そうにひとしきり笑うと、またいつものボスに戻った。
「それも含めて、ボンゴレには回答をしておくれ。なに、老人の戯言と思ってくれて構わんよ。経路がどうあれ、終点は同じ。利害の一致というやつかな、いずれにせよ、私の答えは変わらない。」
 ボスは砂時計をテーブルに立てた。カツンと硬質な音を皮切りに、再び砂が落ち始める。
「……ところでランボ、この花瓶は何かな。」
「ああ!」
 テーブルの上には空の花瓶がぽつんと置かれていた。
「オレそれ、バラを生けようと思って。」
「バラ? アレを切ってしまうつもりだったのかい?」
 驚いたようにボスが問い返した。ランボは肩を竦める。
 しまった、というべきか良かったというべきか。
 ボスはあのバラを切りたくなかったんだ。
「ごめん。オレ、あれをボスに見せたくて。」
「ふむ。では、陽が高くなる前に見に行こうか。」
「うん!」
 ランボはなくさないように飴をポケットに押し込んだ。手紙の束は反対側に。
 目測で行程を測って、獄寺が申し出る。
「肩をお貸ししましょうか?」
「これはオレの仕事!」
 ランボは半ば獄寺を突き飛ばすようにボスの隣に立った。
「獄寺さんは下がっててください!」
 あっぶねぇ。獄寺は数歩退いて、軽くため息をついた。ランボを見守りながら小さく日本語で野次を飛ばす。
「張り切りすぎてコケんなよ。アホ牛。」
「しませんよ。昔の獄寺さんじゃないんですから。」
「ああ?」
「こら、ランボ。」
 右肩をランボに預けて、立ち上がったボスがランボをたしなめた。
「今のは少し、お前が悪い。」
「はぁい。」
 獄寺は一瞬ざまあ見ろという顔をして、それから、ふと動きを止めた。何か考える顔になって、それから、おそるおそる口を開く。
「……あの、失礼ながら、」
 ランボは初めて聞くような、それはそれは丁寧な日本語で、彼はボスに尋ねた。
「もしかして、日本語がお得意で……?」
「伊達に老いさらばえてはいなくてね。」
 ボスもまた流暢な日本語で答えた。獄寺が真っ青になって立ち尽くした。凍り付く、とはまさにこのことだ。
 これは好機だ、とランボは思った。
 やーい、ごくでらのばーか。さてはボスには日本語の悪口は通じないと思ってたな。じゃあ今までオレが一体誰から日本語を習ったと思ってたんだろう。ここは一つビシッと言っておかなくちゃだ。『先に言っとけよこのアホ牛』とか理不尽なことを言われる前に、今こそ。
 ちらっと目配せすると、ボスもやっぱりおかしそうに笑いをこらえていた。そのグレイの瞳にはいたずらそうに笑うランボが映っている。
 ああ、なんだっけ。こういうときにぴったりな、一度言ってみたい台詞があったような気がするんだけど……。そうそう。コレだ。
「……獄寺さん、」
 ランボは笑いを噛み殺して、その口調を真似た。
「っと。……『ボヴィーノを舐めんなよ』?」
 オレはもう大人なので、中指を突き立てたりはしませんが。




おしまい。
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.08.08.11