シーツ。03



「こら、噛んじゃダメだろ?」
 ツナが諭して引っ張っても、獄寺は関節に噛み付いて離さなかった。やむなくツナはもう片方の手も噛み付かれた右手に添える。指先で苛まれていた獄寺の左手は解放される。
「ああ、もう。」
 噛み付いて一向に離そうとしない獄寺に、ツナは呆れた様に軽いため息をついた。
 噛み付かれた手を捕らえて、反対側から口づける。舌先でくすぐると堪え兼ねた様に獄寺は顎の力を緩めた。
「…ッ、は! あ!」
「あーあ、くっきり痕ついちゃってる。」
 ツナは獄寺の歯形をなぞって、そのまま指先を口に含んだ。くちゅりと口の中で獄寺に指を舐めしゃぶる。吸い上げる。
「はぅ、ぅ…あ、ああ!」



 獄寺は快感に怯えた。
 一人きりの射精感は、落下感に似ている。目が眩んで何も考えられなくなって、置き去りにされるような気がする。
 片手はツナの腔内にある。ぺろぺろと舐められて、輪郭を失って、そのまま彼の身体に溶け込んでしまった。飲み込まれて繋がってしまった。
(いやだ、だって、)
 だって、もうその人の他に何もないのに、これ以上持って行かれたら本当に何もなくなってしまう。
(…………いやだ!)
 こんなものいらないと思っても、いくら逃げても、自分からだけは逃げ切れない。一度も逃げ切れなかった。そして、どんなに信じても追いかけても、いつかその人はいなくなる。置き去りにされる。いつか、お前はいらないと言われる日が来る。
 積み上げられた過去が反論を封じる。
(オレにはもう何もないのに。これ以上あなただけになって、それでもあなたに選ばれなかったら、オレはどうすればいい?)
 右手が空を切る。噛むなと言われた。前髪を引き掴む。痛覚で自分の存在を確認する。落ちていく身体を食い止める。
(……痛い)
 安堵したら、白濁が堰を切って彼の下肢を汚した。



 爪が、手のひらに食い込んでいる。水気を帯びて柔らかくなった銀髪を巻き込んで。
「……痛いよ?」
 返事はなかった。
 指先を舌から解放したら、獄寺はその手で顔を覆った。これで彼の手は、今は両方とも彼の頭部にある。二本の腕の下で、荒い息を吐いている。わかってたんだけどさ、と、ツナは密かにため息をついた。
 わかっていたのだけれど、獄寺の左手が宙に浮いたときは、ちょっと期待してしまった。期待した瞬間に裏切られて、その手は真っ直ぐ獄寺自身を選んだ。
(わかってるんだけどさ。獄寺君は、なんでも自分でどうにかしようとする人だ。オレにだけは、絶対頼らない人だ。)
 ツナはそっと獄寺の髪を梳いた。細くて指通りのいい髪だ。おまけに、今は汗で湿り気を帯びて、くったりと、とても素直だ。触り心地のいい髪だ。
(そりゃ、こっちのほうがいいよなあ。オレのなんかぼさぼさでチクチクするばっかだもん。)
 コンプレックスを飲み下して、柔らかな髪を繰り返し撫でる。少しずつ、握りしめられた獄寺の手が緩んでいく。
(…………オレ、そんなに、頼り甲斐ないかなぁ)
 顔を覆う腕が崩れて、獄寺の顔が覗く。泣き腫らした下瞼がぽてりと紅くなっている。
 そっと親指で押したら獄寺は引きつける様に身体を震わせた。喉の奥からしゃくり上げるような声が漏れる。
「っ、…ぅ………」
 宥める様にツナはまた髪を梳いた。張りつめた肩から力が抜ける。ぱたりと獄寺の両腕がシーツに落ちた。薄く浮かび上がる傷跡と、しなやかな筋肉の陰影を見ながらツナは思う。
(頼りない、よな。オレ。)
 謝りたくて、額に口づけた。
「……ごめん。ちょっとやりすぎた。」
(思い上がってました。反省してます。)
 額に、触れるだけのキスをして、ツナはすぐに離れようとした。
 離れようとして、引き止められた。
(……え?)



 引き止めてしまった。手が勝手に。
 掬い上げる様に髪を撫でられるのが心地よかった。
 額に口づけられた。
 そう思ったら頭がふわふわ透明になってはじけて天に昇って、気が付いたら引き止めていた。
 訳が分からない。獄寺にだって訳がわからないけれど、無礼にも引き留めてしまった以上、獄寺はツナに何らか釈明しなくてはならない。
「……の、……あの。」
 その理由を説明しなくてはならないのだけれど、獄寺にだって訳がわからない。
「……あの、もうちょっと、このまま、で……」
 口から出任せで出てきた言葉に自分で驚く。
(……なに要求してんだよオレは、しかも10代目に!!)
 でも、手が離せない。手が離れない。前言撤回の言葉も、出て来ない。
 動揺しているうちに、ツナからぎこちない返事が返ってきた。
「……ん。いい、よ……?」
 そろそろとツナが手を伸ばす。まだ少し丸みを帯びた指が、細い髪をかき分けて獄寺の内に入ってくる。額にあたたかな唇が触れる。獄寺の動揺に拍車がかかる。
(うわ、今……)
 動揺しすぎて、ついにメーターが振り切れた。
(……いま、オレ、10代目の腕の中、だ……)
 距離が近くて、ツナの背中に廻した腕が余る。
 ゆっくりゆっくり降ろしたら、丁度両手がツナの後頭部の辺りに当たった。自分がされている事と同じ様にしようとして、そう言い訳して、獄寺はそっとツナの髪に触れた。
 自分のものとは違う、癖の強い髪が指の合間をくすぐる。その瞬間、引き寄せられた、と獄寺は思った。だから獄寺もツナの背に預けた腕に力を込めた。
 距離が近くなる。張り合わせた肌が心地よくて、獄寺は目を閉じた。



 背中に、腕が回されている。首の後ろで長い指を絡み合わせて、くしゃくしゃと髪を弄ばれる。
(う、わあ……)
 ツナは、言葉が出てこない。
 大人しく、獄寺が、すっぽりと自分の腕の中に収まっている。
 自分の腕は獄寺の頭を抱いている。獄寺の腕はしっかりと自分の背中に廻されている。
 きゅう、と引き寄せられたような気がして、つられて腕に力がこもる。
 手っ取り早く言うと、抱き合っている。
 そうなるように望んでいたのに、いざなってみると、今度は信じられない。うそみたいだ。夢みたいだ。うそみたいだけど夢みたいだけど現実だ。
(……うわあ。)
 獄寺君、頭小さいな、肩幅はオレより広いのに、とか。髪が、いいにおいだな、とか。腕長いな、余っちゃってる、とか。髪を掻き分けてくる指の長さとか、繊細さとか。それが彼にはひどく不釣り合いなような、逆に似つかわしいような、どっちだかわからないとか。
 小さな感想がいくつも浮かんで、ぐるぐる脳裏で渦を巻く。
(……獄寺君、今日は身体あったかい。)
 獄寺に触れると、いつもはひんやりとした冷たさが先にくる。その後、奥の熱さに気が付く。なのに今は、ツナよりずっと体温が高い。ぽかぽかと内側から火照っている。
(……あ、さっきのオレのせいか。)
 気付いた瞬間、ツナの体温も跳ね上がる。
(…………ぅあ、)
 今度のは、驚きじゃなくて『どうしよう』の『うわ、』だ。
(ぅあ、やばい、したい。今オレすげーしたい。このまましたい。)
 あっという間に思考回路は不純で切実な方向に切り替わってしまった。
 『もうちょっとこのまま』っていつまでだろう。そりゃあ、ツナだってもうちょっとこうしていたい。出来るならいつまでもこうしていたいけど、そうしている間にも不純な衝動は膨らんでいく。不純と純情どっちも叶えるには、物理的に無理がある。だってツナの身長じゃ足りない。
(ご、ごくでらくん、ごくでらくん。ねぇごめん、もうちょっとってそれいつまで!?)
 獄寺当人はツナの腕の中で幸福そうに目を閉じている。
 やっぱりかわいいなあ、と、思う。心がきゅうと切なく締め付けられて、出来ればもうちょっとこのままで居たい。ずっとこのままでいたい。だれど、同時に腰の奥の方も洒落にならないぐらいぎゅうとなって、こっちはもっととっても切実だ。
(うわあ、ちょっと、ねえこれどーしよーか、オレ!?)
 変な方向に鈍感な獄寺が気付いてくれるのはいつになるかわからない。かといって今この腕を振りほどいたら次はいつになるかわからない。不純と純情の間でぐるぐるしながら、ツナはともかく次の目標を決めた。
(オレ、次は大急ぎで身長を伸ばそう。)
 オレにもうちょっと頼りがいがあれば、きっとまた、彼から求めてくれる日が来るから。




.08.09.12
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