ごくでらくんのかんさつにっき。 …あき… いつもの放課後の帰り道。 だけど、獄寺君はここのところちょっと不機嫌だ。 不機嫌というか、挙動不審というか……ああ、それはいつものことか。 ええと__うん、そう。警戒モードが最高レベルになっている。通学路のあちこちにばらまかれた小さなオレンジ色の爆弾のせいで。 それは、オレには無害な爆弾だ。たぶん、獄寺君にだけ有害な爆弾。マフィアなんか関係ない、日本製の神経ガス型爆弾。強烈な匂いと催涙効果まであるらしくて、長時間直撃すると涙目になります。 その爆弾は、名前をキンモクセイという。 「何がそんなに嫌なの?」 「嫌な訳じゃないんです。10代目。」 思いっきり眉根を寄せて、苦いクスリでも飲み込んだような表情で、つまり完全に顔に嫌いと書いてある状態で、獄寺君はきっぱりとそれを否定した。 獄寺君が素直に嫌いと言わないのは、やっぱりオレのせいだったりする。 キンモクセイの花が咲き始めた頃、 『これ、一体何のニオイなんスか』 と訊いてきた獄寺君に、オレはうっかり 『キンモクセイだよ。甘くていい匂いだよね。』 と、答えてしまったのだ。 『甘くていい匂い』 これはただの母さんからの受け売りで、いざ突き詰めて考えてみると、オレはキンモクセイの匂いなんて好きでも嫌いでもない。言われてみれば結構匂いがキツいような気もするし、だからと言って文句を言うほどでもないような気もする。ぶっちゃけどうでもいい。ほんと、どーでもいいんだ。 けれど、獄寺君の中ではキンモクセイは甘くていい匂いでオレが好きなもの、と認識されてしまったらしい。で、オレの好きな物をオレの右腕である獄寺君が嫌いだ、なんてことは、獄寺君の中ではあってはならないことらしくて__ 「だから、オレは全然ちっとも嫌いじゃあないんです。10代目。」 両手を握りしめて獄寺君は力説する。 交差点の植え込みは息を止めて早足で通り過ぎた。次の角のマンションの垣根までが短い安全地帯だ。 「わかったわかった。獄寺君がキンモクセイを嫌いじゃないのはわかったから、じゃあなんでそんな息止めて通り過ぎるの?」 なんでって言われても。そんな風に獄寺君は唇を尖らせる。 「……なんかあのニオイ、姉貴の焼いたクッキーみたいで……」 「あー、たまにあるよね。ビアンキの料理って、匂いだけはいいにおいとか、見た目だけおいしそうとか。」 「で、そーゆーのに限って効果は倍増なんスよ。」 青ざめた顔で獄寺君は口元を押さえる。 さすが、姉弟。獄寺君はあれの威力を身を以て体験済みだ。 「あれ? じゃあ獄寺君、キンモクセイの匂いでお腹痛くなるんだ?」 「いえ、似てるなってだけで、身体の方は何ともないっス。」 獄寺君はぶんぶんと首を横に振る。 元気そうだ。っていうか、無駄に元気だ。本当にお腹は大丈夫らしい。 __てことは、本当に似てるだけ……ってそれ、ただの言い掛かりじゃん! ちょっと呆れる。 素直に嫌いなものは嫌いって言えばいいのに、なんで獄寺君はこう変な方向に頑張ってしまうんだろう。 「……トラウマじゃあ、仕方ないよねぇ?」 「いえ、我慢すれば大丈夫です! このぐらい克服してみせます!!」 さりげなく提案したつもりの妥協策もスルーされてしまった。 繰り返すけれど、オレは本当にキンモクセイなんてどうでもいい。無理に好きになってもらおうとも思わない。 てくてく歩いていくうちにもオレ達は次の一本に近づいていって、獄寺君の足は鈍くなる。口数が減る。 「花粉症ってこんな感じかなあ。」 「10代目! オレは植物ごときには負けません!!」 だから断じてそう言う問題じゃない。 近付いてきた深緑と明るいオレンジ色の隣を、獄寺君は息を詰めて通り過ぎた。そこにキンモクセイの匂いという物体が浮いてるみたいに、首を竦めて早足で二歩三歩四歩……。 六歩目で振り返って、やり過ごしたキンモクセイをじろっと睨みつける。よっぽど嫌いらしい。わかりやすい。この調子じゃ絶対に、オレが甘くていい匂いと言わなければ、獄寺君は今頃街中のキンモクセイをダイナマイトでふっ飛ばしていた。 そんなことされたらさすがに困る。困るけど、だからってこんな風に嫌いな物を無理に我慢されても困る。 あれ? じゃあ、どっちに転んでも結局困るんじゃないか。困ったなあ……って、獄寺君といるとオレは困ってばっかりなのか? 実際困ることは多いけど、困ってばっかりじゃあないはずだ。基本面倒臭がりのオレが、困るだけの相手と一緒に帰る訳がない。困るよりもっと大きな、なにかいいことがあるから、困ったと思いながらも一緒にいるんだ。と思う。 別に付きまとわれている訳じゃないぞ。うん。 「あ、」 不意に獄寺君が顔を上げた。瞬きして、何か探す様に遠くを見る。 何かと思ってオレも同じ方に顔を向けたら、ふわんと風が吹いて来た。少し冷たくなってきた秋の風に、ほんの少し甘い匂いが散らばっている。キンモクセイだ。 こうやって、獄寺君は必ずその花に気付く。裏通りにあっても壁に隠れていても絶対見つけるから、秋の匂いを嗅ぎわけるよりも、明るいオレンジを探して目を凝らすよりも、獄寺君を見ているほうがわかりやすい。キンモクセイがこんなに街中で咲いていたことを、オレはこの秋初めて知った。ずっと住んでいた街なのに。 「……あの花、遠くにある時は、そんなでもないんスけどね。」 風の生まれた方角、甘い花の匂いのする方を見つめていた獄寺君は、オレの視線に気付くときまり悪そうにそう言った。 「遠ければ平気なの?」 「近付くと匂いキツすぎるんスよ。んな必死こいて自己主張しなくってもちゃんと気付くってーの。」 ぶっ、と、思わず噴き出しそうになって慌てて堪えた。 なんだそれ、獄寺君のことみたい。似た者同士じゃないか。もしかしてそれって『同族嫌悪』っていうやつじゃないのか? うん、確かに、そんなに頑張らなくてもちゃんと見えてるよ。 「ああ、なんだ。近付かなきゃ平気なんだ。」 「はい。……つか、近付いても別に平気です。」 嘘付け、息止めてるくせに。 「よし、わかった。じゃあ、」 カーブミラーの下でオレはくるりとターンした。入ったことのない、狭い脇道の方へ。 「遠回りして帰ろうか。こっち、見た感じなさそうだよ、キンモクセイ。」 「しばらくはないみたいっスね。……けど、きっとまたすぐありますよ。」 「出くわしたら、その時はまた逃げればいいよ。」 「逃げればって、10代目、そんなこと繰り返してたらいつ10代目のお家に辿り着けるか……」 「でも、いつかは着くだろ?」 納得いかないって顔で獄寺君は立ち尽くす。 そりゃ、獄寺君は逃げ回るのは主義じゃないかもしれないけど、生憎オレはその逆だ。 「我慢するのなんか最終手段でいいよ。そんなのより、獄寺君に隣で息止めて早足で歩かれてもつまんないもん。」 それとも獄寺君はオレと口を訊きたくなかったり、さっさとさよならしたかったりするんだろうか。違うよね? って、うわあ、これじゃまるでオレ、花に嫉妬してる見たいじゃん。獄寺君のこと言えない。 照れ隠し、というか、照れくさいついでに片手を差し出してみた。 「遠回りして、のんびり帰ろうよ。」 「……はい!」 くしゃっと「うれしい」の見本みたいな笑顔になって、獄寺君はオレの手を取る。カチリとどこかで歯車が動く音がした。 獄寺君がキンモクセイを好きになった音だ。 なんて簡単なんだろう。 可笑しくてつい噴き出したら、獄寺君はきょとんとした顔でオレを見返した。 くすくす笑うオレを見て、一度ぱちりと瞬きする。それから、何が可笑しいのか獄寺君まで笑顔になる。 ほら、無理なんかしなくたって、好きになる時は、こんなに簡単に好きになれる。街中が、オレンジ色の甘い匂いで溢れてる。 08.10.15. back |