サバンナのガゼル、屋上のライオン。



 昼休み。
 屋上、青空の下。
 健全な男子中学生の唯一無二の楽しみである昼食の時間。
 なのに、沢田綱吉は食べかけの弁当を前に箸を銜えて固まっていた。
「どーした、ツナ。食欲ねえの?」
 こちらは、昼食などとっくにぺろりと平らげてしまった山本が、食後の牛乳を片手に問いかける。健康優良児の見本みたいだ。
「ん? いや、別に……」
 ツナは口元から箸を離し、弁当箱の方に向け……食事を再開するのかと思いきや、やっぱりやめたという様に一つだけ残されたハンバーグをつついた。食べる気がしない。
「やっぱ、あのビデオのあとだと、さすがにちょっと。」
「ビデオ? あ、さっきの理科のか。そういや、内容なんだった?」
「え? 山本見てなかったの?」
 ツナは驚いて山本を見上げる。と、ここぞとばかり、獄寺が不躾に山本を指差した。
「10代目、このバカ寝てやがりましたよ。」
「はは、なんか教室暗くなったから、つい、な。」
 山本は、特に悪びれる風もない。それが獄寺の反感を煽る。
「暗くなったからじゃねーだろ。てめー真っ昼間の窓際でも寝てんだろーが。」
「へー。獄寺よく見てんのなあ。何? オレのことそんな気になる?」
 駄目押しだった。ぷちん、と獄寺の短い堪忍袋の緒がはじけ飛ぶ。
「ふざっけんなこのバカ!
 てめーなんざついでだ、ついで。右腕として仕方なく、だ。
 てめーも一応ファミリーなんだからな、てめーの成績が悪いと10代目にご迷惑がかかるんだよ! 自覚しやがれこの野球バカ!! でなきゃ、だれがてめーなんざ……」
「あー、わーったわーった。悪かったって。」
 ひらひらと片手で獄寺を宥めながら、山本はツナに顔を向ける。
「で、なんだった? ビデオの内容。あのセンセ変なもん好きだもんな。なんだろ、無修正のカエルの交尾とか?」
「こ……のッ、バカかてめーは!!」
 顔を真っ赤にして獄寺が叫ぶ。
「何で出来てんだよ、テメーの頭は!!」
「え? 結構自信あったのに、ハズレ? じゃ、正解は?」
「……ライオンの狩り。」
 ぽつりとツナは答えて、ハンバーグを弁当箱の隅に突き放した。
「ライオンが群れで、シマウマ追っかけて、噛み付いて引き倒して  
「10代目、ガゼルです! シマウマじゃなくてガゼル。」
 身を乗り出して訂正すると、ツナはじっと獄寺を見返した。笑うでも非難するでもなく、ただ反射する様に『見た』だけだ。
 途端、獄寺は口籠ってしまった。
 『シマウマはウマの仲間で奇蹄目で、ガゼルはウシの仲間で偶蹄目です。全然違います!』とか、そんなことも言うつもりだったのに、ツナの目に気圧されて口籠ってしまった。いつもなら、困った様に笑いながら、それでも最後まで聞いてくれるのに。
 こくんと息を飲み込んで、視線を緩める。ツナは再び山本に顔を向けて、説明を再開する。
「ガゼルを、引きずり倒して喉元にガブってさ。
 生態系の理解の参考資料だって。ネットで拾ってきたらしいんだけど、モザイクもかかって無いヤツで、血とか、結構あれで。女子とか泣き出しちゃったりして。先生は、これが現実だー、とか言ってたけど……」
 ぽいと投げやりに箸を投げ出した。ツナは弁当箱を床に置く。空を仰ぐ。
「あ、無修正ってトコはさっきの山本の予想、アタリだね。」
 笑いながら付け足した言葉は空っぽで、青い空に溶けて消えてしまった。
「ふうん。」
 山本の声がそれに覆い被さる。
「ま、そんなに……」
 言いかけた言葉は、しかし途中で途切れた。ぶつん、と、校内放送のスピーカーのスイッチが入る音がしたのだ。
 調子外れなチャイムのあとに、女子生徒の声が続く。『生徒の呼び出しを行います。野球部の……』
「来た!」
 山本が、弾かれる様に顔を上げた。
「どうしたの?」
「フェンス! 昨日練習で破っちまって、修理頼んでたのな。ないと練習できねーから。けど普通打球で壊れるようなもんじゃないから遊んで壊したんじゃねーかって疑われてて、そんで今日……ああ! とにかく行かねーと!!」
 驚くべき速さで牛乳のパックを空にして押しつぶし、荷物をまとめ、立ち上がる。そのまま走り出す、のかと思いきや、山本は立ち上がったその姿勢で、ぴたっと動きを止めた。
 じっとツナを見て、ついでにちょっと獄寺を見る。一人で何を確認したのか、心配ないという様にへらっと笑った。
「じゃな! またあとで!!」
 今度こそ、風の様に、ぴゅうと山本は走り去ってしまった。階段を駆け下りる小気味よい足音を残して。



「……行っちゃったね。」
「あいつ、まじで野球しに学校来てんスね。」
 ツナも獄寺も、呆気にとられて見送るしかなかった。
「ま、山本らしくていっか。」
 んーっと、ツナは胡座を掻いたまま空に向かって背伸びをする。それから、ハンバーグにぐさっと箸を刺して、獄寺に突き出した。
「獄寺君、これ、たべて。」
「はい?」
 獄寺は瞬きして問い返した。
「たべて。残したら、母さん心配してうるさいし。」
 獄寺は目の前に突きつけられたハンバーグを見て、それからもう一度ツナを見た。
 明るいブラウンの瞳は自分を映している。その目は、拒まれることを考えていない。彼が、拒まないことを知っている。実際、拒まないのだけれど。よく知っているから、こんなことまで尋ねる。
「あ、オレの使った箸じゃいやだった?」
「いえ、まさか! そんなことないです!」
 獄寺はツナの正面にかしこまった様に正座して、上半身を軽く前に傾けた。左手をコンクリートの床に突いて、右手はそっとツナの差し出した手に重ねる。細い中指でまだ少し丸みの残る手の甲に触れて  ふと手を止めた。上目遣いにツナを見る。
「なあに?」
 そう言わんばかりにツナは悪戯そうに目を細める。獄寺はぱっと目を手元に戻した。
「いただきます。」
 声が上擦る。ときどき  、まだちっとも、あるいは永遠に、獄寺はこの距離に慣れない。
「うん。」
 対するツナの声は、愉しそうにころころと揺れている。こっちは、もう随分慣れた。
 重ねられた手に力がこもる。薄い唇を開けて、肉の塊を齧る。
 ツナは、その様をまじまじと見ていた。咀嚼する顎の動きに同期して、首筋から肩へと連なる筋肉が収縮する。制服の白い襟の奥に隠れて、その先は見えないけれど、それでも確かに生きて動いているのがわかる。一口齧るたびに、かくんと頭が上下して、長い前髪が揺れた。丁度、毛先が口元に届く長さで、ひどく邪魔そうだと思うのに獄寺はそれを払いのけようともしない。一心に、食べる。そして、やがて食べ尽くして、顔を上げた。
「ごちそうさまでした。」
「おいしかった?」
「はい。」
「そか、よかった。」
 ふと、ツナは獄寺の口に目を止めた。
「ケチャップ付いてる。」
「あ、」
 人差し指で唇に触れて、毒々しい赤を拭ってぺろりとなめた。獄寺は恥じた様に頬を赤らめる。あかにも、いろんなあかがあるんだなとツナは思った。
 獄寺君のあかは、結構好きだ。
 でもあのあかは、好きになれそうにない。
「……ライオンはやだな。オレ。」
 至近距離でそう言われて、獄寺はぽかんとした顔になった。
 あ、はは。何言ってんだオレは。つい  
 今度はツナの方が赤くなって、言い繕う。
「生まれ変わっても、ライオンはなりたくないなって思ったんだよ。」
「そんなことないです、10代目! 百獣の王っスよ、10代目にこそ相応しいです!」
 ああほら、言うと思った。
「やだよ。毎日食事するために長距離走なんてめんどくさそうだし、アフリカなんか暑そうだし、あんまり……おいしくなさそうだったし。」
 何か思い出しているようなその視線で、獄寺は気付く。
 10代目はライオンを見ていたのか。
 もしもの話だよ、と、ツナはきまり悪そうに頭を掻いた。
「オレのことだからさ、もしライオンなんかになっちゃったら、きっとずーっと涼しい洞窟とかで寝てるよ。で、どうっしようもなく腹減ったときに、やっと洞窟から出るの。んで、腹ぺこだからろくに走れなくてさ、すっげーかっこわるい駄目ライオンになるんだ。」
 だからって、飢え死にするのもいやだけどね。
 ツナは肩を竦めて笑った。クセの強い髪が風を孕んで靡く。
 10代目は、ライオンを見ていたのか。
 獄寺は、追われるガゼルを見ていた。青い目が、恍惚と空を見上げる様を。
「大丈夫っスよ、10代目。10代目が気になさる必要なんかないんです。あいつらそんなこと考えてませんから。」
 走って走って体中バラバラになりそうで、段々何から逃げてんのかもわかんなくなって、それでも逃げずにはいられなくて、もう死んじまった方がマシって思い出した頃についに追いつかれる。
「追いつかれて、喰いちぎられたら、もう逃げずに済むんです。」
 なんて羨ましい生き物だろうと思う。
 あいつらは死ぬまで逃げるよりないのだ。何も考えずにただ逃げ続けて、終わりは誰かが与えてくれる。
 生まれ変わるなら、ガゼルになりたい。
「あいつら、喰われながらほっとしてたでしょう。だから、あんな奴らのために10代目が洞窟で飢え死になさる必要はないんです。」
 今度は、ツナが驚く番だった。
 ツナは、ライオンの鼻面が赤く血に塗れてくのを見ていた。腹に顔を埋めて、喰い破る。食べるために丸められた背骨の向こうで、蹄だけがまだ宙を蹴っていた。
 食べられる動物の顔なんて、見てらんなかったよ。
「……でも、やっぱ、ライオンにはなりたくないよ。」
「じゃあ、その時はオレがガゼルになります。オレは10代目になら食べられても平気です。」
 ツナは、もう、いっそ呆れてしまう。
「獄寺君一匹じゃ足りないよ。」
「なら、何度でも生まれ変わります。
 10代目がライオンでいらっしゃる間は何度でも、洞窟の前まで行きますから、オレを食べてください。そしたらまた、何度でも生まれ変わって10代目の前まで行きます。」
 何十回でも喰い殺されてくれるって言うの?
 無茶苦茶だよ。
 呟いた声は、獄寺には聞き取れなかったらしい。  
「嫌だって言ったの! いらないよ。
 大体、どうぞ召し上がれって、なんだかおいしそうじゃないしさ。」
「じゃあ、見た感じ美味そうなガゼルになります。追いかけずにはいられないような。
 走れば腹減るから、食えると思いますよ。」
「だからそもそも食べたくないんだってば!」
「じゃあ足の速いガゼルになります。10代目には絶対捕まらないガゼルに。」
 それならいいか。
 宣言されて流されて、矛盾に気付いたのはそのあとだ。
「って、それじゃオレ結局飢え死にじゃん!」
「だから10代目は飢え死になんかしませんって! オレが居ますから!!」
 ついに、ツナは呆れるを通り越しておかしくなってしまった。
 屋上で大声で、何話してるんだオレたち。
「あーもー。やっぱ獄寺君って無茶苦茶だって。オレ訳わかんなくなってきた。」
 ツナは投げた。一抜けたとばかり、ごろんと仰向けに寝っ転がる。
 いい天気だ。
「いいよ。オレ、ライオンにはならないから。なれっこないし。」
「勿体無いです! 10代目ともあろうお方が!」
 獄寺は、なんだかまだ食い下がっている。ツナはひらひらと手を振った。
「ないない。ぜんっぜんもったいなくなんかないよ。」
 これはもう聞く耳持ってらっしゃらないな、と、獄寺は判断した。この話は終わりだ。でも  
 獄寺も、空を仰ぐ。風が吹いて、彼の銀色の髪をひらひらとなびかせた。
 でもオレは、ガゼルになりたい。
 誰よりも美しい毛並みを手に入れて、逃げて逃げて走り続けてその人を探して、いつか、洞窟から引きづり出してみせよう。他のやつなんかには捕まらない。
「でもオレは、10代目以外には絶対に捕まらないガゼルになりますから。」




09.03.05.
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