Annunciation



 まだ少し耳鳴りがしているようだ。獄寺は額に手をやった。
 怪我はしなかった、もちろん熱だってない。だが、どうも足元が浮ついた感じがする。
 耳元で壁ごと吹き飛ばされたのだから無理もない、と獄寺は結論付けた。額から手を離す。
「獄寺君、大丈夫?」
 隣を歩くツナが足を止めた。同じく足を止め、獄寺は応える。
「平気っす。こんなの、大したことじゃありません」
「……そっか。なら、いいんだけど」
「はい、問題ありません」
 歯切れの悪いツナの口調に、獄寺は気付かない。
 本当は、全然よくない。
 獄寺の「平気です」は朝のニュースの「おはよう」より意味のない言葉だ。ただの返事だ。ちっともよくない。
 行きましょう、と獄寺がツナを促した。出発の時間は差し迫っている。挨拶をしておきたい人や、見ておきたい場所はまだたくさんある。
 けれどツナは歩き出せなかった。突っ立ったまま、視線だけが一人来た道を戻る。獄寺の表情を通過し、外壁のパネルのつなぎ目をいくつも横切り、その後方、モスカが暴走して壁をぶち抜いた辺りでやっと止まった。
 そこに残っているのは壁の大穴だけだ。スパナは挨拶もそこそこに「今のデータを打ち込んでくる」とモスカを連れてラボに戻ってしまった。ビアンキは応急処置のためにジャンニーニを呼びに行った。
 白い廊下は無人だ。そこに、ひゅーひゅーと風が吹いている。穴を開けられたことで、空気の流れがかわったらしい。黒く煤けた開口部に風が吸い込まれていく。
 獄寺は振り返らず、前を向いたままだった。けれど彼の髪も、暗い穴に吸い込まれるように、後へ後へと風に煽られていた。
「……そういえば、さ」
 ぎゅうっとポケットの中で手を握った。ツナは、努めて明るい声を出した。
「何話してたの? ビアンキと」


 ツナの視線が、自分に移った。
 ……なにを話した?
 獄寺は先ほどのやり取りを再生しようとした。
 まだ少し耳鳴りがする。音叉を叩いたようにきぃんと鋭い音が頭に響いて、自然に眉根に皺がよってしまう。それを振り払うように、獄寺は左右に首を振った。
「大したことじゃありません。10代目」
「……ほんとに、たいしたことなかったの」
 ツナはポケットから手を引き抜いた。かかとでぐるりとターンして、獄寺に向き合う。
「ビアンキが持ってたの、なんだかずいぶんおっきな荷物だったよ。ビアンキは、わざわざあれを取りに、危ないなかアジトに戻ったんだろ? なんだったの、あれ。」
    耳鳴りがする。
 ツナはじいっと獄寺を見上げていた。急にその視線が苦しくなって、獄寺は微かに顔を俯かせた。ちゃんと向かい合うふりをして、視界の真ん中に映すのはツナのパーカーのファスナーだ。
 規則正しく列んだ銀の金具を数えながら、獄寺は思い出そうとする。
 ……見せられた、鞄の中身はなんだった…………?


 ぱ、と獄寺は顔を上げた。
 正確には、上げたというより勝手に上がったと言うほうが正しかった。言葉も、考えるより先に口から飛び出した。
「ただの、手紙です」
「手紙?」
「親父から、母親……に」
 そこで、獄寺は口ごもってしまった。ちくりと何かが胸を刺して、獄寺はまた顔を逸らす。
 姉の素振りから、父親絡みのことだろうとは予測していた。けれどまさか、実母まで関わってくるとは思っていなかった。
 視線を落としたまま、獄寺は自分の足元を睨みつける。
 いまさら関係ない。死んだ人間の話だ。捨てた家の話だ。それでふらつくなんて、まだまだ覚悟が足りない。まして、ツナの前でこんな   
 失態だと獄寺は感じた。ぎりりと奥歯を噛み締める。
    つくづく、足りてねぇんだよ、てめーは。
 自分が苛立たしい。未熟さが不甲斐無く、ツナに土下座して詫びたいような気分だった。
 しかし、許しを請おうにもツナは何も知らない。知らせる道理もない。不甲斐無さだけが行き場をなくして獄寺の胸を重く埋めていく。


 その時だった。
「……え?」とワンテンポ遅れて、ツナが、驚いたような気の抜けたような声を漏らした。
「え? 手紙、獄寺君の、お母さんに?」
 獄寺は顔を上げる。ツナは、びっくりしたというようにぽかんと口を開けていた。
    ほらやっぱり。
 獄寺は一人、確信を得た。
 おかしいんだ。今更そんな事をいわれても、納得できない。その証拠に、ツナの瞳はきょとんと大きく見開かれている。
 ほら見ろやっぱり、おかしいんだそんなの。ざまーみろ。
 獄寺は安心した。胸の内でのたうち回る不甲斐無さが、すうっと消えていく。代わりに、胸の奥が冷たく凍っていく。
 この感覚は獄寺の身に馴染んだものだった。例えば家の事を思うとき、最後にはいつもこうなる。
 だから、獄寺は安心した。安心したことをツナにも伝えようと、笑って見せることを思いついた。軽く首を傾げ、目を細め、わずかに口の端を引き上げる。
 獄寺は、確かに意図的に笑ってみせたつもりだった。けれど、やってみたら本当に笑えてきた。
 これは獄寺にも馴染みのない感覚だった。軽く持ち上げた唇を突き破って、喉の奥から奇妙な痙攣が飛び出そうとしてくる。
 もしもこの場に誰もいなければ、自分一人だったら、獄寺は微笑などやめてげらげらと笑い出していただろう。……ツナの前だから、獄寺はそんなことはしなかった。代わりに、胃袋の奥底の引き攣りを噛み殺して、にっこりと笑ってみせる。こんなにも無傷だと両手を広げてみせる。そして復唱する。
 今更何を言われようと、オレは何も変わらない。平気だ。それらはすべて、おわったことだから。
「ほんと、たいしたことじゃあないんです、10代目。10代目に気を遣っていただくようなことじゃあ ……」


「なんだ、そっかぁ」
    ストン。
 ツナの肩から力が抜けた。ふにゃ、と表情を崩して、ツナが胸を撫で下ろす。
「よかったあ、ほっとしたよ」
 その安堵した表情に、なぜか獄寺は戸惑った。
「……は?」
 違和感がぞわりと背中を伝う。
 いや待て、オレは確かに10代目を安心させようとして笑ったはずだ。だけど   
「よかった…ん、すか……?」
    一体、なにが?
 獄寺は困惑していた。ツナの台詞をまったく理解できなかった。だから、「なにがですか」さえ口にできなかった。
 『よかった』…………?
 ただツナの言葉を反芻する。ツナはにこにこと笑っている。
「なんで? よかったに決まってるよ。うちの親父なんかほったらかしだよ? たまに手紙きたと思ったらハガキに『帰る』だけだしさぁ」
「いっ、いえ! ですが10代目! 10代目のお父様は、」
 咄嗟に、まるで当たり前のように獄寺の心は弁護に回った。自身の困惑はどこかに吹き飛ぶ。
 だって、10代目のお父様はボンゴレの要職についているのだから。きっとご家族を巻き込みたくないとかそんな深い事情があって   。いや、オレ如きに心情など推し量る事など出来ないが、でも少なくともあの様子から、ご家族を愛していないようには。第一、まさか『10代目の』お父様がそんな、妻や子供を愛していない、なんてことあるわけが……
 沸き上がった反論を口にしようとして、再び違和感が獄寺の胸を塞いだ。それは矛盾していると誰かが告げる。そしてあの言葉を突きつける。

『祝福されて生まれてきた』

 ビアンキはそう言った。思い出すと、途端、反論が獄寺の胸で渦巻く。
 そんなはずがないだろう? あいつがそんなことするはずない。だってあの男は!
 叫ぶ声で頭が破裂しそうだ。なのに、足元はひどく頼りない。
 自分を否定するこの口で、ツナを否定するのか? 愛されて生まれてきたわけないと言いながら、彼には愛されずに生まれてきたわけがないと言うのか?    矛盾している。
 それは10代目だからだ、と主張するには、獄寺はもうツナを知りすぎていた。
 彼は、獄寺の目の前のこの少年は、決して特別な人間ではない。平凡な、ただの中学生だ。もう獄寺はその事に気が付いている。そして自分も、選ばれた人間などではない。獄寺自身が一番よく知っている。
 彼我に明確な差異などない。どこにもない。
 ……それでも、そんなはずないんだ。だってオレが、そんなはずないだろ……?


 とん、と軽い足音がした。ツナのものだ。それが獄寺を呼び戻す。
 一歩獄寺に歩み寄り、ツナは身を屈めた。獄寺の顔を覗き込む。栗毛色の髪が額に流れて、現れた透明度の高い瞳がにっこりと笑う。柔らかな声が、告げる。
「獄寺君のお父さん、いい人だったんだね」
 獄寺は目を逸らし、唇の端を噛んだ。握りしめた掌に爪が食い込む。心は壊れた機械みたいに繰り返す。
 そんなはずないんだ。だっていまさら、おかしいだろ、そんなの。
 積み上げてきた否定の言葉が崩されていく。崩れていくから端から積み上げる。けれど慌てて積み上げた言葉は脆くて、そんなものでは崩壊は止められない。
 だって…だってよ、おかしいだろそんなの。だってオレは、だって、あいつは   
 けれど続きが言葉にならない。
 ずっと、そこには悪意しかないのだと思っていた。そのはずだった。
 姉が言っていた。なにか、すごく大事なことを言っていた。そんな気がするのに、思い出そうとする聞こえない。誰かが『違う、ちがう!』と叫んでいる。まるで脳を揺さぶるような耳鳴り。聞きたくない。聞きたくない。ああもう、うるさい! 耳を塞ぎたい!
「…………獄寺君?」
 呼ぶ声に、獄寺は引き戻された。
 ツナが、心配そうな表情で獄寺を見上げていた。

    10代目は、よかったって言った。

 獄寺は、その声を選んだ。
 呆然と繰り返す。
「……よかったん、ですか、それで」
「なに言ってんだよ、あたりまえだろ」
 くすっと笑って、ツナが目を細めた。
「嫌いなのより、好きな方がいいに決まってるよ。あたりまえだろ?」
 繰り返して、ツナはすっと屈めていた背を伸ばした。
 ああ、また背が伸びた。
 獄寺はなぜかそんな事に気が付いた。
 ああそうだ。いつだったっけ。あのときは、この人はもっと小さくて   
 不意に記憶がよみがえる。そう、あれは確か、何回目か、ツナの家に宿題を手伝いにいったときのことだ。
 いつものようにランボが邪魔をしにきて、部屋中荒らした挙げ句それでも相手にされなくて、最後には泣きながら階下に駆け下りていった。やがて奈々がランボを抱えて現れて「ツナはお兄ちゃんでしょう」と言った。ツナは「えー?」と口を尖らせて、イヤそうに、それでもちゃんと両手を伸ばしてランボを受け取った。
 そうだ。あの時に、思ったのだ。
 きっと、こんな子供は帰る場所をなくしたりしないんだろう。
 きっと、オレもこんな子供だったら、帰る場所をなくしたりしなかったんだろう。
 帰る場所がないから今オレがいるんじゃなくて、昔、そこにいたのがオレじゃなかったら。そうしたら、きっと帰る場所はなくならなかったんだ。ずっとそこに居られたんだ。
 ……もしもオレが、10代目みたいな、そんな子供だったら。
 獄寺は思い出した。
 あの時自分は、すこしだけ、本当にほんの少しだけ、羨ましいと思ったのだ。尊敬でも賞賛でもなく、ただ、羨ましいと。
 祝福されて生まれてきたのだと姉は言った。
 それはいい事だとツナが言った。
 あの日自分は、ツナを羨ましいと思った。
「そう……っすね」 
 口の端から、言葉がこぼれる。
「よかった、です。」
 それは、初めて言葉を覚えた子供のようにたどたどしい声だった。けれど、その言葉はするりと獄寺の体に滑り込んで、欠けていたどこかにぴたりとあてはまった。
 それは不思議な感触だった。
 灼ける熱量も凍える冷たさもない。喚き散らしたいとも呪いたいとも思わない。涙さえ呼ばない。ただ静かに、ぴたりと獄寺の胸にはまっている。
    たぶん、これが『よかった』ってことなんだ。
 胸のつかえが取れて、獄寺はゆっくりと息を吐いた。そんなつもりはなかったのだけれど、
「うん、よかったんだよ」
 まるで獄寺につられたように、ツナは笑って獄寺の言葉を繰り返した。
 その表情に、獄寺の胸は熱くなる。繰り返したくなる。今度はもっと、強い声で。
「はい。よかったです」
    よかったです。たとえオレがまだそれを信じられなくても、今、10代目がそれを祝福してくれている。だから、
「きっと、よかったんです。」









10.04.02.
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