隠れ家



 クロームが帰ってこない。
 買い出しに行ったのだ。一人で。
 犬が空腹と騒ぎ出したから。
 しかも、備蓄してある食料品ではなくて、菓子が食べたい、と。



 最初は、いつも通りの午後だった。
 いつも通り、犬が騒いでいた。

「なー、柿ピー、」
「はらへったー。」
「ガームー、」
「チョーコー。あーめー!」
「無視すんな! モサカッパー!!」

 犬は、めんどい。
「……菓子ならガムが、」
 遠い部屋の床下に目を遣ると、犬は上擦った(いつもだけど)声で切り返してきた。
「あ、あれは! あれは、非常食らから、食べちゃ駄目なんら!!」

 ああそうか。
 食べてしまったんだな。あの『非常食』。
 あれは何日前の事だったかと思い返す。ガムは何粒入っていたかと計算する。
 つまり、毎日ちょっとずつ、オレたちにはバレないようにこっそり食べて、そして、ついに食べ尽くしてしまったというわけだ。それで今日は特別にうるさいのか。
 やれやれ。
 一日一粒、こっそりと、なんて、犬にしては慎ましやかな行動だと思うし、よく我慢したものだとも思う。けれどあれは非常食で、でもどのみちガムは非常食にはならなくて……。
 めんどいので、追究しないで放っておくことにした。
 犬はうーと唸りながら、低い姿勢でオレの様子をうかがっている。しばらくそうしていて、追撃はないらしいと判断すると、やがて警戒を解いた。そうしてまた、それでも今度は少し控えめな声で、はらへっらー、と唱えた。

 そうしたら、クロームが立ち上がったのだ。
 イタリア語会話の本をパタンと閉じて、買ってくる、と。

「犬、何がいいの」
「……ガム。」
「千種は」
 別に、いらない。
「、じゃあ、行ってくるね。」

 そう言って、出て行った。
 それっきり、クロームが帰ってこない。
 クロームは帰ってこなくて、そのかわり、若い女が現れた。
 先に気がついたのは犬だった。
「……クソ女?」
 その呼び方もどうかと思うけど、言われてみれば確かに、女はクロームに似ていた。似てはいたけれど、年齢が違いすぎる。女は20代前半に見えた。
 クソ女と呼ばれた女は、クソ女と言われたにもかかわらず安心したように少し笑って、小さく口を動かした。犬に何か言ったようだけど、オレには聞き取れなかった。そして本当にクロームそっくりに、真っ青な顔で気を失った。



 夜になった。
 女は、眠り続けている。
「これ、クロームなのか。」
 昼間、一度だけ、犬に訊いてみた。
「クロームなんじゃねーの?」
 女をソファに寝かせて、布を掛けながら犬は言った。
「……そう。」
 犬は鼻が利く。犬がクロームなんじゃないかと言うなら、この女は、クロームじゃないけれどクロームなんだろう。
 腑に落ちないけれど、まあ、目が覚めたら訊けばいい。
 そう思っているうちに、夜になってしまった。あんなにうるさかった犬は、女が現れてからすっかり黙りこくっている。手足を縮込めて、飛びかかる直前のトラみたいな格好で、何か真剣に考えている。
 暗闇と沈黙。
 オレは、なんだか眠くなってしまった。
 得体の知れない女がアジトに居座っている以上、気を抜いてはいけないのだけれど、女は目を覚ます気配もないし、クロームらしいし、何より、夜行性の犬が気を張りつめている。
 結局、オレは気が抜けてちょっと眠ってしまったらしい。何かの気配で我に返った。
 何かが動いた気配だ。犬を探す、と、犬は居ない。
 ちがう、今動いた『何か』が犬だったのだ。犬が、部屋から出て行ったんだ。それも、オレたち以外の何者かに反応して出て行ったわけではなく、犬自身が足音を忍ばせてこっそりと音もなく。
 何の用だろう。
 犬が出て行った以上、オレがこの場を警戒しなくてはならない。一度眼鏡を外して、目頭を押さえた。睡魔を追い払う。
 それとも犬は、オレが気を抜いた隙をついて出て行ったんだろうか。
 犬はなかなか帰ってこなかった。
 暗闇で息を潜めたり、辺りを窺うことには慣れている。けれど、一人でいると、随分時間が長く感じる。
 そうだ、一人だ。
 骸様も居ないしクロームも帰ってこないし、これで犬まで居なくなったら困る。
 困る、と思ったら、急に時間感覚が狂って犬が出て行ってから何分経ったかわからなくなった。
「……遅いな。犬」
 呟いたら、犬が出て行ったのは『もうずっと前』のような気がしてきた。
 参ったな。引きずられてる。
 感覚を取り戻そうと、立ち上がる。
「……千種?」
 女が、目を覚ましていた。
「千種、ひとりなの? 犬は?」
「……外に出てる。」
 名前を知っている。オレのも、犬のも。
「お前、クロームなのか?」
「そう。」
 女が身を起こす。
「私、未来から来たの、10年後の。」
 それから、ぽつぽつと女が話した内容は、ひどく込み入ったものだった。
「……信じられない?」
 話し終えて、女が訊いた。
「……めんどいな。犬に説明するの。」
 というか、理解しないだろう。だから、最低限の用件だけ再確認した。
「骸様は、無事なんだな。」
「うん。大丈夫、骸様は、強いから。」
「クロームは?」
 女は、一度瞬きした。
「大丈夫、」
 瞬きして、繰り返した。
「大丈夫。みんな、必ずここに戻ってくるから、だいじょうぶ」
 だから、しばらくここで、休ませて。
 囁いて、女は再び目を閉じた。眠りにつく。
 入れ違いに、遠くで何かの気配がした。
 ああ、犬だ。




 犬は、隠れ家にいた。
「犬?」
 ぎくっと振り返った、足下には、真新しいフルーツガムが一箱。
「こっ、これはっ!」
 手をばたばたさせて犬は言う。聞いてもいないのに。
「これは、あのクソ女が役に立ったって言ってたから、そー言えば無事らんかなって心配んらって確認しに来ただけで、オレは食べてないかんね!!」
 つまり、こっそり元通りにするために抜け出してガムを手に入れて来たわけだ。
「……別にいいけど。」
 めんどい。
 未来から来た人間の言葉に従って行動したら、未来を書き換えることになってしまうのではないか、とか、そもそも犬はあの女が未来から来たクロームだという事をどこまで認識しているんだろうか、とか、問い質したい事はいくつかあったけれど、めんどいのでやめた。
「あーあ。それにしても、あのクソ女遅いよなー。ガム買ってくるってゆったくせに。」
 犬は大声で言って、それからぽつんと小さく付け足した。
『遅くなんなら、骸さんも一緒につれて帰ってこねーかな。』
 本当に、どこまで事態を把握しているんだろう。でも、最後の一言は同感だった。
「犬、」
「んあ?」
「非常食は食べるなよ。クロームが買って帰ってくるから、それまでガムは我慢。」
「んー。わかった。」
 犬はバサバサと頭を掻いた。
 隠れ家の入り口を塞ぐ。
「それと、」
「なに? 柿ピー、まだなんかあんの?」
 犬は、とても面倒くさそうにオレを振り返った。つられて、オレも随分めんどいことをしようとしている気がしたけれど、もう話かけてしまったのでやっぱり言う事にした。
「お帰り、犬。」






08.07.14.
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