脱走少年(かつての)


 あー……。
 と、フゥ太はいっそ懐かしい、微笑ましい気分でそれを見つめる。

 あははっ。
 磁場が生じちゃってる。無重力どころか、あれじゃまるでブラックホール。

 ただの休憩なのか、頭を冷やしなさいと追い出されたのか、『彼』は雑然としたアジトの通路にしゃがみこんで、じっと一点を睨んでいる。
 髪は乱れたまま、体中に乾きかけの血と砂埃が付着して、余計に荒んでみえる。右手には煙草の箱を持っている。が、吸う気はもうないらしい。
 ただ取り出して手に持っているだけで、じっと動かない。
 動かず、ただ睨んでいる。
 呪う様に、射殺す様に、なにかを。

 僕たちには、道なんて二つしかなくて、
そして僕たちのうちでもほんの一握り、選ばれた子供しか、
二つしかない道の片っぽだって、自分じゃ選べなかったんだ。

 右手の煙草の箱が、ぎりりと握りつぶされかけるのを見て、フゥ太は堪らず声を掛けた。
 「ハヤト兄!」
 あ? と、彼は睨む。
 フゥ太は微笑んで、ちょっとだけ困った素振りでその視線を受け流す。
 「ランボ見なかった? 勝手にかくれんぼ始めちゃって……」
 もちろん嘘だ。今、ランボはすやすやお昼寝中。
 「知らねーよ」
 彼はゆらりと体を揺らして立ち上がる。
 見上げる視線は棘のよう。
 「つか、チビはここいらのフロア、入れねーんじゃねーのかよ」
 ばれてる。
 でも、フゥ太はたじろがない。
 見下ろす視線でにっこりと笑う。
 「うん。そーだった。戻って探しなおしてみるよ」
 「……そーしろよ」
 けっ、と、彼は目を逸らす。

 『彼』はフゥ太より一回り小さい。
 伸びすぎた髪を乱雑に縛って、露わになった首筋も、まだ細い肩も。
 彼はまだ子供だった。
 彼はまだ子供で、まだ生きる事に必死だった。

 子供だった僕達には、道なんて二つしかなかった。
 笑うか、睨むかだ。
 全ての大人を味方につけて、自分の楯として利用するか、全ての大人を敵にして、自分を道具として利用させるか。
 そして、大人を利用できるのは、本当に一握りの選ばれた子供だけなんだ。
 例えば、僕みたいに。

 「……あのね、ハヤト兄……」
 フゥ太は躊躇いがちに口を開いた。

 選ばれなかった子供の気持ちを、僕は理解できない。

 10年経ちました。
 周りはみんな大人です。敵です。
 でも、もちろんキミも大人になってたんです。
 そして大人になったキミは、子供のキミの、とても大事なヒトを、死なせてしまったのです。
 大人のキミは、キミの大事なヒトを見殺しにするんです。

「あのね、ハヤト兄、言いたいことがあるんだ」

 僕には大好きな人が何人もいる。
 何人もいて、みんな僕を守ってくれてた。
 だけど……

 「ハヤト兄。
 ハヤト兄はね、ツナ兄のコト、すっごく好きだった」

 だけど、ねぇ、たった一人ってどんな感じ?
 ずっと一人でいるのはどんな気持ち?
 たった一人をみつける、それはどれだけ幸せなこと?

 急き立てられるように、フゥ太は早口になる。

 「ハヤト兄はツナ兄のコトすっごく好きだった。
 10年間ずっと好きだったんだよ。
 ハヤト兄、ツナ兄と一緒なら、いっつもすごくうれしそうに笑ってた。
 楽しそうだった。幸せそうだった」




 フゥ太が最後に見た獄寺隼人は、ちょうどボスに呼ばれて部屋に向かう時だった。入れ違い様に部屋から出てきた彼は、フゥ太の姿を見つけて一瞬表情を消した。
 若き幹部らしい毅然とした顔付きになる。片手を上げて軽く挨拶をして、カツカツと靴音を響かせて去っていった。
 フゥ太はその時なんとなく、そう、ただその日は偶然何となく、振り返って彼を見送った。
 彼は曲がり角を曲がるところだった。
 誰もいない廊下で、10代目ファミリーの仕切るエリアから本部へと切り替わる曲がり角で、横顔の彼は、ふっと表情をゆるめた。まるで思い出し笑いするみたいに、目が優しくなる。
 そしてまた、トンと大きく足を踏み出した。曲がり角の向こうは戦地。
 翡翠の瞳が前を見据える。銀の髪が跳ねる。お伽話の騎士みたいに、勇ましく。
 そうして、彼の姿は壁の向こうに消えた。
 ほんの一瞬だったのに、フゥ太はまだ肩越しに覗き見た彼を覚えている。彼の決意と、彼の笑顔を。

 忘れるわけない。
 ツナ兄の隣に立って、ふっと見上げると、ハヤト兄はいつだって、そうやって笑ってたんだから。ずっとそうだったんだから。

 「ずっと好きだったんだよ。10年ずっと、変わらなかった。
 変わらなかったんだよ。
 ハヤト兄は、ツナ兄が、本当に大好きだったんだ! だから……」

 彼は呆気にとられた様子でフゥ太を見ていた。
 フゥ太も気付いていた。
 出過ぎたことを言ってる。空回りしてる。
 でも、いいんだ。僕が言わなくちゃ。だって僕たちは……

 「だから、信じて欲しいんだ。疑わないで。嫌いにならないで」

 僕たちは、本当は、自分の心以外、守るものも頼るものもなかったから。
 僕たちは、なんにも持てない子供だったから。
 だから神様、どうかこの子の大事な物だけは取り上げないで。
 たった一人を奪わないで。
 たった一人のための彼を、どうか守って。

 「10年経っても、獄寺隼人の大事なものランキング第一位は、
 沢田綱吉だったんだ。
 大好きだったんだよ」

 でも神様。
 僕たちは、
 少なくともカミサマ、あなたに選ばれなかったこの子は、
 あなただってなんにもしてくれないことを知っているから、
 だから、
 僕が。

 「あの人がボスを守るために、必死にならなかったわけないんだ。
 忘れないで。
 お願い、信じて。
 疑わないで。
 獄寺隼人は、絶対ハヤト兄を裏切ったりしてないよ」

 だからせめて僕が、キミがたった一人を失わないように。
 揺らがないように、前を向けるように。
 勝手に想いを伝えるよ。

 「ハヤト兄はきっと、ツナ兄を護るためにここに呼ばれたんだ。
 ハヤト兄の好きなツナ兄を護るために。
 だから、強くなって、ハヤト兄のツナ兄を護って」

 キミが、貴方が、貴方のままでいられるように。

 最後の一言は飲み込んで、フゥ太はいつもの人懐っこい笑顔を見せた。

 「なーんてね。
 えへへっ。
 実は僕もまだ下っ端だからって、
 今回の件はなんにも知らされてなかったんだ。
 でも……」

 ぴょんと軽く一歩ステップを踏んで、フゥ太は彼の顔を覗き込む。

 「大人の事情なんか知らないよね。
 こっちで勝手に頑張って、こんな未来変えちゃおうよ、ね?」

 けっ、と吐き捨てて、彼は煙草の箱をジーンズのポケットに押し込んだ。
 「ったりめーのコト言うんじゃねーよ!
 どこのファミリーだか知らねーが、
 右腕のこのオレが、オレの10代目には指一本触れさせねー!」
 修行の場へと続く、ドアのノブに手を掛ける。
 「お前も、アホ牛のことしっかり見張っとけよ。
 間違っても10代目にご迷惑おかけするんじゃねーぞ!
 ったく、どいつもこいつも背ばっかりデカくなりやがって」
 彼は悪態を吐く。いつものように。
 「うん。こっちは任せて」
 フゥ太は微笑む。いつものように。
 「ハヤト兄は、修行がんばってね」

 てめーに言われる筋合いはねーよ。
 呟いてドアを開けた。
 風が吹き込む。
 金色の砂が舞い、銀の髪が踊る。
 翡翠の瞳が貫く様に真っ直ぐに前を見据えている。
 その横顔を残して、ばたりとドアは閉まった。

 選ばれなかった子供は、そうやって、戦い抜いて生きて行く。

 これは勝手な同情かな。
 それとも優越感かな。

 一人残された、フゥ太は考える。

 違う。
 僕は、あのヒトを、ずっとちゃんと好きだったんだ。
 一人きりでも戦える、あのヒトが。







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