1/3は純情な感情。



 獄寺は、山本がそういうことをしてくるのが嫌いだった。
 例えば、こんな風に終わった後に、背中から抱いて首筋に顔を埋めてくること。
 とっとと出ていけばよかったのだ。この四角い白いエリアから。でも終わった後の身体はだるくて、とても立ち上がって服を着るなんて気分にはなれない。
(だってコイツ、体力バカだし)
 言い訳して、ぼーっと転がっていると汗が冷えてくる。同じくぼけっと転がっていた山本に一枚上掛けをかけられると、その生温い空間から抜け出せなくなる。抜け出せなくて、なんとなくズルズルそこに留まっていると、決まって山本の腕が伸びてきて、抱き寄せられる。
 それが、いやだ。
 冷たい鼻先とか柔らかい睫毛とか、そういうのが、そういう目的じゃなくただふれてくるのが、とてつもなく嫌だ。
(つか、気持ちワリィ)
 声を出すのも面倒なので、片手を持ち上げて振り払う。
「えー、なんでー?」
 間の抜けた山本の反論。
「……うっせーな。ヤなんだよ、オレは。さわんな」
「ちぇー」
 肩から冷たい鼻先の感触が去る。かわりに、振り上げた手をとられて、手の甲に唇の感触。
「、だからやめろっつの。なんなんだよ? やりたりねーんなら付き合うけど?」
「んー。そーゆーんじゃねーんだけどな」
「じゃあなんだよ。さわんな、気持ちワリィ」
(気持ちワリィ、ね……)
 想定の範囲内だけど、山本はちょっとめげる。
(例えばツナなら、オレが、オレじゃなくて獄寺の大好きな10代目なら、コイツはこんなこと言わないんだ)
 それは、獄寺の言い方を借りれば、相手がツナなら『気持ち悪』くないから、なんだろう。でも、本当はきっとそうじゃない、と山本は思う。
 たぶん獄寺は、誰からだってこういう風に触られるのは好きじゃない。ただ、相手がツナなら獄寺はツナの主張を優先して、それ以外なら自分の主張が先になるのだ。
(で、オレはそれ以外。なんかだか、なぁ)
 もうちょっと歩み寄りとかそういう精神があってもいいんじゃないだろうか。
 その言い分はまるっきりリトル時代の監督の受け売りだったので、そりゃ聞き入れてもらえるわけないかと山本は妙に納得する。獄寺に、そういうのは似合わない。
(でも、オレは触りたい)
 触られたくないのが獄寺の事情なら、触りたいのが山本の欲求。譲歩していただかなくては、困る。
(うん。困るし、それぐらいはいいはずだ)
 例えば男同士だとか、自分はともかく獄寺はそういう意味で山本を好きではないだろうとか、そういうめんどくさいことを置いといても、好きな人や親しい人に触れたいなんて、そうすると幸せだったり安心したりするなんて、ごく一般的な感情のはずだ。
 何回か論理展開を確認して、主張が間違ってないことを確かめて、山本は今度は獄寺の頭のてっぺんに顔を埋めた。細い髪がくすぐったい。
「だーかーら、やめろっつってんだよ」
 その言い方が心底嫌そうなので、山本はいっそ笑ってしまう。
「獄寺、ほんとに嫌なのな」
「ったりめーだ。何度も言わすな、バカ」
「じゃーさ、コレ、やってんのがオレじゃなくてツナだったら?」
(はあ?)
 何言ってやがんだ、コイツ。
 獄寺はいっそ呆れる。
 こういう状況下では、山本の言うことはいつだって訳がわからない。
「獄寺は、我慢してじっとしてんの?」
(……我慢?)
「するか、バーカ。10代目がなさることでオレが嫌なことなんて、あるはずねーだろが」
 即答だった。
(いや、獄寺。お前ちょっとは考えろよ)
 マシンバッティング並に、何も考えずに反射で答えている。
「例え話だって。ちょっとは考えてくれよなー。もしオレが……ってか、えっと、こーやってんのが、オレじゃなくてツナだったら、獄寺はほんとにちっとも気持ちワリィとか思わねーの?」
「お前、やっぱしつけーしうぜー」
 あっちいけ、と肘で押してみる。動かない。むかつく。が、ムキになって払いのけても、どうせイタチごっこになる。むかつく、けど、あほらしい。
 山本は無視する事にして、獄寺は身を縮める。肩を丸めて首をすくめて、そして、考える。思い出す。
 あの人に触れられると、ひどくヒリヒリするのだ。
 やめてくれ、と思う。逃げ出したくなる。まさかそんなことは出来ないので、ただただじっとしている。
 そうすると、やがて、焼けるような肌の痛みは臨界点を越えて、自分の境界があやふやになる。どこまでが自分の身体で、どこからがあのヒトの身体なのか、わからなくなる。肌が融解して自分の身体があのヒトの中へ溶け込んでしまったように錯覚する。
(あれは、すこし、こわい)
 ひどく心地良いけれど、同時にひどく恐ろしい。そしてついでに言えば、あの甘い恐怖は他の誰とも共有したくない。他の誰かで思い出したくもない。
(あれは、オレだけのものだ)
 ましてその誰かが、よりによって山本だなど。
(あれは、オレだけのもんだ!)
 けれど実際は、そいつに触れられている場所が、とっくにじりじりと悲鳴を上げている。痛い。熱い、暖かい。やわらかい、やさしい…………なんだこれ、気持ちわりぃ。このままいったらそこから溶けだす。かもしれない。まさか!
(冗談じゃねえ。このバカとそんなことになったら、オレは死ぬ!)
 いや、だめだ。この命は10代目のもの。こんなところで勝手に使い果たすわけには行かない。
(じゃあ、このバカを殺す!)
 それもダメだ。そんなことしたら10代目が悲しむ。
 八方塞がり。
(……あークソ。知るか!)
「いいから離せってんだよ!」
 振り払って向き直って、獄寺は山本を睨み付ける。
 向き直って離せと怒鳴った獄寺の頬が、ほんの少し紅潮していたので、ああ少しは考えてくれたんだと山本は嬉しくなる。嬉しくなって、銀の髪を掻き分けてその頬に触れる。
「や、め、ろ、ってんだよ。話聞いてんのかてめぇ」
「聞いてる。んで、やだ」
「ああ?」
「オレ、好きなやつに触んの好きだから、獄寺にも触りたい。お前が死ぬほど嫌なんだったらオレ我慢するけど、そーじゃないんだったら触らせて?」
 山本の指は、獄寺の髪を一筋つまんで引っ張った。手を離すと、それは元通り跳ね上がる。引っ張っては、放す。それを繰り返して、山本は楽しそうに笑っている。
 獄寺は溜息をつく。
「……死ぬほどヤだ。ヤメロ」
 言ったものの、語気は弱かった。段々自信がなくなってきたのだ。
 山本の言う『死ぬほど嫌』は自分の『死ぬほどイヤ』とはきっと意味が違って、で、山本はこれは死ぬほどじゃないと思っている。だからやめない。そして実際、誰も死なない。オレも山本も、10代目も。
 それでも、と獄寺は思う。
 それでも、他人に触れられるのは嫌いだ。勝手に意識に靄がかかっていく。
 そうでなくても身体はだるいのだ。加えてバカを相手に馬鹿みたいな禅問答。
(……ああ、くそ。眠くなってきた)
 瞼を閉じたら負けだ。
(……誰に?)
 山本に。
 でももう振り払う体力も睨み付ける気力も残ってない。
(あーもーめんどくせぇ。どーせコイツ馬鹿だし)
 暖簾に腕押し、糠に釘、馬の耳に念仏。
(一個でも知ってたら褒めてやるよ。純日本製の天然バカ)
 獄寺は目を閉じた。指先が髪を掻き分けて、山本が自分の領域に侵入してくる。
 そっと俯くように抱き寄せられた。額が胸に触れる。それはぼんやりとあたたかい。遠くで波のように繰り返す、呼吸の音が聞こえている。
(……知るか、眠い!)
 ぼーっとする。
 繰り返される遠い響きが、相手の呼吸なのか自分の心音なのかわからなくなる。
「……山本、」
「んー?」
「お前さ、好きなやつには触りたいって、じゃあ、10代目ともこーゆーことしてぇの?」
「………………『こーゆー』って?」
 問い返したのは、時間稼ぎだ。
 獄寺はときどきとんでもないカウンターを撃つ。当の本人は、借りてきた猫みたいに目を閉じて大人しくしている。何を考えているのか分からない。基本的に獄寺はものすごく分かりやすいから、時々さっぱりわからない。
 わからないから、深呼吸して、山本は正直に大真面目に答えた。
「……したいよ。すっげーしてーけど、やったら最期、歯止め効かなくなりそ」
 だから、やらない。あいつには絶対こんな風には触らない。
 すぅ、と獄寺が静かに息を吸った。肺の奥に気を溜めて、ゆっくりと、目を見開く。
「10代目に、んなことしてみろ。マジでぶっ殺す」
 腕の中の暗がりから、二つの光が山本を射る。
 山本は、獄寺の目が好きだ。まるで人間じゃないみたいな、光る、金属みたいな緑。ヒトでも猫でも、番犬でも狼でもないと思う。獄寺は、獄寺だ。
 もしもそんな日が来たら、コイツはこの目でオレを殺すんだろう。
(もしかして、それはそれでアリ、なのかもな)
 そんときは任せた、なんて言ったら、きっとただでは済まない。獄寺に『マジでぶっ殺』されるだろう。だから、決して口には出来ない。けど、心のどこかで、自分でもわからないぐらい奥深くで、そんな安心感があるから、自分はここにいられるのだと思う。
(ラッキー、だよな)
 獄寺がいてよかった。ここにいるのが獄寺で、獄寺が獄寺で良かった。山本はそう思う。
「おい、返事」
「ん……」
 曖昧な山本のこたえを聞いて、獄寺は再び目を閉じた。
「じゃあ、これは取引だな。お前、好きにしろよ。オレ、寝るから」
 裸の胸に猫みたいに鼻先を押し付けて、獄寺は眠そうにあくびを一つした。
「……あー、でも起こすよーなことしやがったらブッコロス」
 山本はこっそりと笑う。
(あー、ほんと、獄寺って獄寺なのな)
 イタリアからの帰国子女にして、国語だって成績トップクラス。なのになんで口を開くとこんなにワンパターンなんだろう。
 言ったらまた暴れるから、山本はこっそりと笑う。銀の髪に指を絡めて、ちいさな形のよい頭を抱いて、ささやいた。
「ん。おやすみ、獄寺」







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