Comes to an Angel 03 獄寺は観念してゆっくりと姿勢を低くした。それでも、せめて押し流されないようにきつく目蓋を閉じて。 なのに、その決意も長くは保たなかった。 やわらかな唇をそっと押し当てられる。たったそれだけ、それ以上の深入りはされずに微かな温もりを与えただけで離れられれば、切なくて自然に身体から力が抜けた。予想される侵入を拒むために、固く竦めていた肩も、きつく引き結んだ唇も、物足りないと叫ぶ欲求に負けて、飢えた雛鳥のように喘ぎ始める。 やがて薄く開いた唇からは、どちらのものとも知れない吐息が漏れるようになった。それは朝の空気に還元することを許されず、直ぐまたもう一方の舌に舐めとられる。 ツナの指が、獄寺の白いうなじをたどって、ピアスを外した耳朶の輪郭を愛撫する。舌先を擦り合わせて絡め合って、一滴でも唾液を零そうものなら、ねっとりと弱い首筋まで舐め上げられた。 身体のあちこちから与えられる刺激全てを、一つも漏らすまいと追いかける。意識が分断されて、何も考えられなくなる。引き換えに、身体の奥には小さな火が燻りだす。まるで、ツナの炎を貰い火したように。 いつもなら、このままその火に身体を任せれば良かった。けれど今日は、分断された意識のうちのたった一つが警鐘を鳴らし続けていた。 獄寺は砕けた意識をかき集め、息を止めた。 きつく目を閉じる。身を堅くした獄寺に察したのか、ツナの方から唇が離れた。永遠に続くはずのループが途切れる。 「……あ、」 最後にこぼれた名残惜しそうな声は、獄寺のものだった。 無意識の反応に、獄寺はまた身体を固くする。それを宥めるように、ツナの手のひらがその背中をとん、とん、と撫でた。 「……今日ぐらいは、いいだろ。」 唇を尖らせた口調は我が儘を装っているけれど、抱き寄せる腕はどこか優しい。まるで、獄寺の心の揺れを理解しているかのように。 「二人で遅刻して、執務室に駆け込んで、パニーニでも齧りながら手分けしてメールチェックすれば、ボンゴレ的にはリボーンが何発か壁に穴開ける程度の遅れで済むよ。今日ぐらいは、そういうの、ダメ?」 そう出来たらどんなにいいだろう。 でもそれは、ボンゴレ10代目の右腕としては、あるまじき行為だ。そんな甘えは許されない。獄寺が、ツナの完璧な右腕として、いつまでも隣に居るために。 「……今日ぐらい。じゃ、ありません。 誕生日はもうおしまいです。離してください、10代目。オレは、もう行かないと。」 「もう『行かなくちゃ』だろ?」 ツナが目を細めて笑う。真意が読み取れず、獄寺は困惑する。 「さっきも、背中から『まだ起きたくないなー』ってオーラが出てたよ。だから、捕まえてあげたんだ。」 ベッドについていた右腕をとられた。ツナの腕が背中に回る。くるりと景色が反転して、獄寺の身体はベッドに仰向けに押し倒された。 「 一瞬のうちに全てが反転した世界で、ツナだけが変わらず、穏やかでくすぐったい笑みを獄寺に注いでくれる。 ツナの手はゆるく獄寺の腕を掴んで、その身体をベッドに押さえつけている。指はそっと肌の上に置かれているだけなのに、それはやすやすと獄寺の肌をすり抜けて神経に絡み付いて、起き上がるどころか身じろぎ一つさえ出来なくさせる。朝の光にも拭いきれない、一晩を二人で過ごした気配が、悪い毒のように理性を眠らせる。 もう抗えないと悟って、そんな簡単に籠絡されてしまう自分が悔しくて、獄寺はわざと不愉快そうにツナから目を逸らした。 「……オレは、出してませんよ、10代目。そんなオーラ。」 「強情だなあ。」 ツナがため息をつく。 「あのね獄寺君。いいことを教えてあげよう。 たとえ日付が変わっててもベッドを出るまで朝は来ないんだよ? オレは、そういうことにしてんの。」 ツナは獄寺のおでこにキスをした。 「だからまだ、今日は君の誕生日。なにか、今欲しいもの、あるだろ?」 くすくす笑いながら問いかける声に、獄寺はただ、黙って頷いた。 キスで焦らされていた身体は、未だ色褪せない昨夜の記憶の助けもあって、簡単に綻びだした。 大きな手のひらでシャツの上から体中を愛撫される。あっという間に息が弾んで、下半身の衣服を一気に奪われたときには、期待感にぶるりと身体が震えた。みっともないと脳裏をかすめた羞恥心も、剥き出しの太ももを撫でられるうち、焦らされ燻り出した熱に追いやられて、どこかに消えてしまった。 はやくはやくはやく…… 自分の身体が、疼いているのがよくわかる。このままじゃすぐ見失う。何もわからなくなる。昨夜みたいに。 「あのっ、10代目!」 だから、獄寺は必死で理性をかき集めて声を上げた。 「ん? どうしたの、獄寺君。」 ツナの瞳に自分が映っている。甘い声が聴覚を伝って脳を溶かしていく。 どんどん崩れていく自我に追われるように、獄寺は声を張り上げた。 「あの……今度は、付けてください。さすがに始末してる時間が……」 数秒の沈黙の後、ぷっとツナが吹き出した。 「じゅ……じゅうだいめ? オレ、何かおかしな 「獄寺君のエッチ。朝っぱらから最後まで欲しいの?」 つん、と頬をつつかれた。言われたことの意味に気付いた途端、かあああっとかつてない速さで獄寺の頬に朱が走る。 「 「冗談。欲しいって言わせたかったのに、失敗しちゃったなと思って。」 真っ赤になって反論する獄寺をツナは抱きしめるようにして宥めた。そして獄寺の動揺が落ち着いた頃、静かに「ねえ、」と口を開いた。 「……ねえ、最後のお願いが『ゴムつけて』で終わっちゃうよ? 誕生日。本当に、欲しいものないの?」 ゆっくりとした低い声は真摯で、欲しい物を問われているのに、まるで懇願されているような気分になる。けれど、何度欲しいものと言われても、獄寺はやはり相応しい答えを見つけられない。 本当に、獄寺はツナと一緒にいられるだけで満足なのだ。それ以上のことなど思いつかない。あるはずもない。 何度そう言っても、ツナはそれを理解してくれない。どうしても獄寺からの要求を引き出したいらしい。それで、昨夜は散々焦らされた。獄寺が屈して、泣きながら懇願するまで。喉が涸れるほどに。 思い出しただけで身体の芯がジンと痺れる。顔が熱くなる。 「それは……ゆうべ散々、言わされました。」 「でも、」 ぐいとベッドについた腕を伸ばして、やにわにツナが身を起こした。真上からじっと獄寺を見下ろす。 「形に残るものは、あげてない。」 申し訳ありません、と、謝罪の言葉が口をついて出そうになったけれど、それがツナの望む答えでないことはわかっていたから、ただ黙って、まっすぐにツナを見上げた。 本当に、何もないのだ。これ以上獄寺がツナに望むことなんて。 それが偽りない獄寺の気持ちなのに 自分は、きっととんでもない目つきでツナを見詰めていたのだろうと獄寺は思った。ツナが、諦めとも赦しともとれる優しい目になって、そっと笑うように息を吐いた。 「昨夜みたいに、獄寺君が素直に欲しいって言えるようになるまで、待っててあげる時間がないのが残念だよ。」 ツナの手が、再び獄寺の上に降りてきた。 今度はさっきより幾分早急だった。シャツの裾から潜り込んだ手が、獄寺の張りのいい素肌をなぞり上げ、躊躇わず胸の突端を探り当てる。 昨夜何度、そこで泣かされたか。 一夜にして、そこはすっかり従順な性感帯になってしまった。くるりと裾野をなぞられただけで、背骨の奥がじいんと痺れる。甘い疼きが小さな芽を膨らませる。 速すぎる展開に、獄寺はつい声を上げた。 「っ、じゅうだいめ、そこ、やだ……っ」 「『やだ』?」 ツナが聞き咎める。 瞳が、嫌ならやめちゃうよ、と言っている。違う、やめて欲しいわけじゃない、でも これじゃあ駆け引きにもならない。まるで家庭教師に行儀を教えられている子供のようだ。 こくんと唾を呑み込んで、獄寺は言い直した。 「まだ……少し、待ってください。」 「うん。」 よく出来ましたとばかりに頷いて、ツナは張りつめ出した突端から手を離し、そのまま背中へと両手を滑り込ませた。ゆっくりと、撫でられる。一度速くなった呼吸が穏やかになっていく。全身が、温かな安堵感に包まれていく。 獄寺も、ツナの身体に腕を回した。ぴたりと胸を張り合わせれば、二つの鼓動さえ、同じリズムになっていく。 ……一緒にいられれば、オレは10代目とこうしていられれば、それで十分なんだ。それも、もうすぐ終わってしまうけれど、今。今さえ、こうしていられれば、それで 突如、ツナを抱く獄寺の腕に力がこもった。 今さえなんて嘘だ。本当は、終わりにしたくない。終わりになんかしたくない! 獄寺はツナを抱き締めた。抱擁というには強すぎる力に、ツナが驚いた声を出す。 「どうしたの、獄寺君。」 『……じゅうだいめ、』 呼びかける声が掠れた。 本当は、行きたくなんかない。ずっとこうしていたい。ずっとオレのことだけ見て、オレだけの人で居て欲しい。 「まだ、欲しいもの、言ってもいいですか?」 「 ツナの手が背中を撫でる。それで、獄寺は自分の身体が小さく震えていることに気が付いた。 こめかみに温かなものが触れた。ツナの唇だ。獄寺の震えが止まる。唇を押し当てたそのままの近さで、ツナが続きを促す。 「……教えて、獄寺君。」 小さく息を呑むと、獄寺は顔を上げ、ツナの目を見詰めた。 「約束を、してください。来年の誕生日も、オレと 『オレと一緒にいてください。』 途端、獄寺は不安になる。とんでもないことを言ってしまった気がして、身体が震える。 「こっ……九日じゃ、なくてもいいです。10代目の、お時間の 「獄寺君、」 強い口調とまなざしが、獄寺の言葉を遮った。 「来年の誕生日も一緒に、それがいいんだね。」 こくん。獄寺は頷いた。 それ以外に何があるだろう。 ツナの時間を奪うことは誰にでも出来る。 どこかのマフィアの実力者になってクーデターを企てるとか、そんな面倒な計画は必要ない。掃除中のメイドが花瓶を倒しそうになったり、視界の隅で路地裏の子供が転んで泣きそうになったり、誰だって、どんなものだって、その目を奪うことができる。 誰も、彼の心を縛ることはできない。たった一人、沢田綱吉本人しか、その心の向かう先は決められない。 また来年も二人きりで過ごしたいなんて、自分を選べ、なんて、この世で一番大それた望みだと、獄寺は思う。 本当に、大それた望みだ ひやりと冷たい不安感が獄寺の足元から這い上がってきた。しかしそれに飲み込まれる寸前、ツナの声が獄寺を現実に引き戻した。聞いた覚えのない、まるで独り言のような、どこか、頼りない声。 「獄寺君、覚えてる……?」 声とともに、ツナの身体が自分の上に落下してきた。 ツナが獄寺の胸に顔を埋める。ぎゅう、と押し付ける。くぐもった声が、獄寺の胸を叩く。 「初めて、オレが君の誕生日を聞いたとき。君は、来年の約束より、次の日曜日がいいって言った。 もちろん、覚えていた。 だってあの頃は、獄寺には『来年』なんて想像もつかなかったのだ。 何かしていないと、明日にでも、瞬き一つしている間にも、ツナは自分に対する興味を失って、見向きもされなくなるんじゃないかと不安で、毎日必死で、ツナのために何が出来るか考えていた。どうすれば一緒にいられるか、いてもらえるか、ただそればかりを…… 色褪せない『遠いあの頃』の記憶を思い出しながら、獄寺は自分の勘違いに気が付いた。 一緒に居たい。そのために生きたい。それは今の自分も変わっていない。なのに、自分はそれを、今とは違う遠い日のことだと思っている。 背中に回ったツナの手が、痛いほどに強く獄寺の肩を掴んだ。 「10代目?」 獄寺の意識は即座にツナへと切り替わる。 「ぜったい、やくそくする。世界大戦しててもそんなん放り出して、ぜったい獄寺君のところに行く。」 ぽた、と、獄寺の胸に温かな何かが落ちた。見ると、シャツの上に透明な水滴の跡。 「じゅっ……じゅうだいめ!? オレ、何か泣かせるようなこと言いましたか?」 「……っ! ちっ違うよ、これは……」 ツナは反射的に顔を上げ否定しかけて、途中で口を噤んだ。目の縁にうっすら、涙がにじんでいる。これじゃあ隠し様もない。 「……これは、嬉しいんだよ。 あーったくもう! 獄寺君ってば時間かかりすぎ!」 涙まじりの声で叫ぶと、ツナは再び、ぺしゃんと獄寺の胸におでこを押し付けた。それだけでは足りないのか、ぐりぐりおでこを獄寺の身体に押し付ける。 「ちょっ……ちょっと、10代目、くっ、くすぐったいっス!」 抗議する自分の声に紛れてツナが呟いたのを、獄寺は確かに聞いた気がした。 『 そしてその声が、くすくすと笑う声に変わる。獄寺の身体の上に寝転がったまま、投げ掛けられたツナの視線は子供のように屈託のない悪戯さだ。 明るい栗色の瞳が、獄寺に笑いかけている。 「続きしよっか。」 一歩身を乗り出し、ツナは獄寺の耳元に囁いた。 「欲しいものはもう聞いたからね。お返しに、今度は意地悪しないで、全部気持ちよくしてあげる。」 視線が交差する。 数秒の後、「困ります、もう朝……!」と獄寺が絶叫したのだけれど、それは容易くツナの唇に封じられ、誰の耳にも届かなかった。 そうして二人はたっぷり3時間ほど遅刻し、執務室に駆け込んだとたんリボーンから集中砲火を受け、罰として来月のツナの誕生日当日にそりゃーもうスパルタな実戦研修を言い渡されたのだけれど、それはまあ、別の話。 10.10.20. back |
||