ふたりの場所 -01- 未来から帰還して一ヶ月が経ったある土曜日。 マンションのインターホンが間の抜けた音で獄寺を呼んだ。 モニターに映っていたのは、見覚えのない若い男だ。 年の頃なら20代半ばかもう少し下。のほほんと温和そうな顔をしていて、どう見てもマフィア関係者ではない。 魚眼レンズで歪んだ白黒映像でも、そこまでの情報は読み取れた。そしてそれは必要十分な情報だった。 ここは、父母の海外転勤のおかげで一人暮らししている中学生の下宿、とカモフラージュされている。得体の知れない男にドアを開ける謂れはない。 モニターの映像を一瞥して、即、獄寺は居留守を使うことに決める。 しかし、踵を返したその耳に流暢なイタリア語が飛び込んできた。 『突然訪問する非礼を詫びるよ、獄寺君。』 獄寺は耳を疑う。 聞き慣れた、柔らかな声。 『オレが、誰だか分かる? 良かったら、ドアを開けてくれないかな。 折り入って君にお願いがあるんだ。』 「うわー。なっつかしー。ぜんっぜん変わってないや。 って、オレが入れ替わってきたんだから当たり前なんだけどさ。」 部屋に入ると、その人は突如言葉遣いを日本語に切り替えた。 そうすると、その人は本当にあの人にそっくりで、違いと言ったら背が伸びたこと、ほんの少し声が低くなったこと、それだけだった。 それから、瞳の奥の小さな翳り。 それは郷愁だろうと、獄寺は半ば無理矢理自分に言い聞かせた。 「……10代目、」 意を決して呼びかけると、仕立ての良いスーツ姿の若い男、沢田綱吉はゆっくりと獄寺に振り返った。 淡い期待が確信に変わる。確信と、安堵に。 「やっぱり、10代目なんすね。良かった、本当に、ご無事だったんですね。」 うん、と、10年後の沢田綱吉は、柔らかな笑みを浮かべた。 「オレの ありがとう、獄寺君。 みんなのおかげで、こっちは全部がいい方向に向かってるよ。」 もうなんにも心配いらないよ。 そう言って綱吉は獄寺の肩に手をかけた。 細い肩を包む大きな手。不安もわだかまりも全て溶かしてくれるような温かい手。 獄寺は俯いて、唇の端を噛む。 そうしないと、みっともない声を上げて泣き出しそうだった。無事だ、仮死状態にすぎないと聞いてはいたけれど、面会することは叶わなかったのだ。 涙ぐむ獄寺に、くすりと綱吉が微笑む。 「それでね、この前大迷惑かけたばかりなのに、本当に申し訳ないんだけど。 獄寺君。ちょっとオレのこと匿ってくれないかな。」 「………は?」 獄寺は、ぱちくりと目をしばたたかせた。 「ていうか、現れた時点で驚いて欲しいんだけどね。 オレ、どう見ても10年後の姿だろう?」 綱吉は両手を広げてみせる。 言われてみればその通り、異常事態。 だが、ここのところそれどころではない目にあっていたので、獄寺はその辺の感覚がすっかり麻痺してしまっていた。 「あのね、リボーンが……何考えてるんだか知らないんだけど、こっちの世界のオレに10年バズーカを当てちゃったんだよね。実戦訓練とかなんとか言ってたけど。それでオレが、入れ替わりでこっちに来ちゃったんだ。 5分で帰れるんなら部屋で大人しくしてるんだけど、改良弾らしくてさ。最低24時間は元に戻れないらしくて。さすがに丸一日じゃ、隠れてるのは無理だし、母さんに見つかったらなんて説明したらいいか分からないし。 だからね、悪いんだけど君のところで匿って欲しいんだ。」 にっこりと、優しいブラウンの瞳が獄寺に向かって笑いかける。 ほんの少し申し訳なさそうに。いつもの、宿題手伝ってくれないかなと言う申し出と同じように。 変わったのは、その視線が自分を優しく見下ろしている、その角度だけだ。 「もっ、もちろんです。狭苦しい家ですけど、どうぞ、ゆっくりなさっていてください!」 かあ、と顔を火照らせる獄寺を見つめて、ありがとうと綱吉は微笑んだ。 「うっわー! そっか10年前ってワンピース、まだエース救出作戦の頃かあ! なっつかしー! これこの後さあ……」 フローリングに胡座を掻いて、床に広げたジャンプを指差して、綱吉が嬉々として語るので獄寺は慌てて大声を出した。 「じゅっ! じゅーだいめ! ネタバレはナシです!」 「え? なんで。獄寺君ジャンプ読んでたっけ?」 うぐ、と、獄寺は答えに詰まる。昼休み、屋上でツナと山本が漫画を回し読みする横で、獄寺はぼんやり煙草を吹かしていた。……ことになっている。 「なーんだ。やっぱちゃっかり読んでたんだ。」 「それはその、一般教養と言うか、暇つぶしっつーか……」 ごにょごにょと語尾を濁して、ふと気が付く。 「つかあの10代目? もしかしてまだジャンプ読んでらっしゃるんですか? イタリアで?」 「うん。読んでる。ボンゴレの物流機構を舐めるなよ? ちゃんと発売日の午後には読んでる。 つか、どうせ使わないから屋敷の衣装部屋も改築して漫画部屋にしちゃった。」 こともなげに言うので やはり、さすが10代目だ。……もう少し、有効な活用方法がある気もするが、きっとその辺は全部こなしてしまって余力が有り余ってそんなくだらな……いや個人的なことに流用しているんだろう。 「漫画部屋っていうか、守護者共有の雑誌部屋かなあ。 ベースボールマガジンもボクシングマガジンもあるし。 あ、もちろん世界の神秘もあるよ。ツチノコ特集が載るのはね……」 「わあああああああああああ!」 途端獄寺は、部屋中が大気がびりびり震えるような大声を出した。さっきのワンピースの比ではない。 肺が空っぽになるまで息を吐き出したらしく、頬を赤くしてぜいぜい息を荒げている。さすがの綱吉もきょとんと目を丸くした。 「……びっくりした。」 「も、申し訳ありません、でも。」 きょとんとしている綱吉の目をひしと見つめて、獄寺は決死のお願いをする。 「すげー楽しみにしてるんで、どうか内緒にしてください。10代目!」 深々と頭を下げるのを見て、くすりとツナが笑う。 「ん。わかった。じゃあこの話はこれでおしまい。」 ジャンプを閉じて、壁の時計に目を遣る。 昼過ぎにこの部屋にやってきて、くだらない話をして、気が付けばそろそろ午後7時だ。 「おなか減ったね。獄寺君。ご飯にしようか。」 綱吉は立ち上がる。 「どうせ獄寺君ち、冷蔵庫の中空っぽだろ。 転がり込ませてもらってるお詫びに、ご飯ぐらいは奢るよ。」 何がいい? と言いかけて、綱吉はぴたりと動きを止めた。さあっと顔が青くなる。 「……しまった。ここ10年前だった。」 はーっと、ため息を吐いて、綱吉は落胆し大きく肩を落とす。 どうしたのかと首を傾げる獄寺に、綱吉はカードを一枚取り出してみせた。 「ほらこれ、むこうはもっぱら電子マネーなんだよ。つか、オレ自分で支払いすることまずないし、その前に日本円なんて持ち合わせが……。 すっかり忘れてたよ。まいったな、どーしよ。 リボーンに金借りる……のは癪だしなあ。10年で利子がいくらつくか分かったもんじゃないし。」 「あ! じゃあオレが!」 奢ります! と言おうとして獄寺はポケットに手を突っ込んだ。指先のコインの感覚を引っ掴んで、握りしめた手の平を広げる。と…… 「ごぉ、ろく……765円、だね。」 綱吉の声に獄寺は羞恥のあまり真っ赤になった。なんて情けない。 10代目のお役に立つ ずううんと沈んでいる獄寺を見て、ぷっと綱吉が吹き出した。 「ご、ごめん。笑うところじゃないんだけどね。でも、」 本当に、戻ってきたって感じだなあ。 そう言って綱吉は、堪えきれないとくつくつと声を立てた。 「獄寺君が、そうやって落ち込んでるとこ見るの、ほんとにひさしぶりだ。」 「……オレ、失敗しなくなるんすか?」 おずおずと獄寺は疑問を口にしたが、綱吉は『さあ?』と嘯いて答えなかった。 「さて、予算一人350円か。」 「10代目! オレの分は結構ですから! どうぞお一人で! はした金ですけど一人前にはなります!」 「そうはいかないよ。中学生、おなか減るだろ?」 「けど、10代目にマズいもの食わせる訳には!」 「えー?」 綱吉はふにゃりと笑って否定する。 「300円あれば十分でしょ。 中学の頃なんか100円でどうにかしてたじゃん。」 チーズバーガーとかさー、と綱吉は指を立てる。そんなもの10代目に食べさせる訳にいかない、という獄寺の心中などおかまい無しだ。 「あ! そうだ!」 そして、思いついた、というように綱吉は目を輝かせた。 「獄寺君。オレ、コンビニのおでん食べたい。向こうじゃ絶対食べられないからさ。」 綱吉の格好は、イタリアからそのまま呼び出されたものだから、三揃えの黒のスーツ姿だった。 「これでコンビニは引くよなぁ。」 ちょっと待ってくれる? そう言って、綱吉はジャケットを脱いでベストを脱ぐ。 その下から防弾チョッキが現れたので、獄寺は一瞬目を見張った。左脇には銃の収められたホルスター。 自分の部屋で、「10代目」と同じように寛いだ表情を見せていたから、すっかり忘れていた。 そう、この人は、ボンゴレファミリーのボスなのだ。 この程度の装備は当たり前。 その存在が急に遠いものに思えて、獄寺は足元に目を落とした。その頭上に綱吉の言葉が降る。 「これも、ここじゃいらないよね。 結構重くてさ、肩にくるんだ。久しぶりに脱げてラッキーだ。」 どさり、と肩から落とすと、それまでで一番重い音がした。 それから、カフスボタンを外しネクタイを抜き取り、バサバサとシャツを着崩す。無造作に袖を捲りあげて、深めに襟元のボタンを外す。 「……って、これじゃなんだか残業のサラリーマンだな。 獄寺君、この辺の借りていい?」 指差したのはベッドボードの上に乱雑に置かれたシルバー類だ。 「はい。構いませんけど、」 「うん。ありがと。」 頷くと、綱吉はそれらを手際よく選んで身につけていった。クロスが切り抜かれたドッグタグやキーチェーン。中学生のツナからは想像もつかない慣れた手付き。 できあがったのは、見違えるような伊達男だった。獄寺は呆気にとられる。 「だってそりゃ、10年も一緒にいるし、」 視線に気付いて、綱吉ははにかんだ。 「向こう渡ってからはオレのコーディネーターは君だし。見様見真似でも、このくらいはできるようになるよ。 さ、おまたせ。 行こうか。」 綱吉は獄寺に手を差し出した。 そうするのが当然だ、というように差し伸べられた手。獄寺はごくりとつばを飲み、おずおずと自分の手を重ねる。 10年経った綱吉の手は自分よりずっと大きくて、どぎまぎした。 思わず手を引きそうになる。それを、まるで予測されていたように、強く掴んで引き寄せられる。 予想外の動きによろけて、獄寺は綱吉の胸に凭れ掛かった。彼の身体は、その程度の衝撃では揺らぎもしない。少し低くなった声が耳元で囁く。 『惚れ直した?』 カァッと身体が熱くなって、獄寺は思わず全力で身体を引き離した。くつくつと綱吉が笑う。 「冗談。 さ、行こうか。て言ってもオレが奢ってもらうんだけどね。ごめんね、10年経ってもあいかわらずダメツナでさ。」 そう言って屈託なく笑う、白いシャツの胸はもう子供の身体ではない。しっかりとした男のもので、獄寺には、それのどこがダメなのかちっとも分からなかった。 Next 02 .09.09.09 BackIndex |
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