ローマへの手紙 手紙は苦手だ。特に書き出しが苦手だ。ペンを片手に、どうも固まってしまう。とりあえず、無沙汰を詫びる。それから、 『この度は突然の教区の異動を聞き入れてくださり、ありがとうございました。』 あの男に再び見えたのはシチリア本島の波止場でだった。 前回あったのは師匠の命で例の日本人の子供の人探しに同行していた時だ。 初対面の印象は、随分居丈高にものをいう子供だ、と思った。その後、あの小さな島の長の一人息子と知って納得がいった。最初から、人を従え先に立つものとなるよう育てられていたわけだ。 それが一年後、自分の島から離れたシチリア本島の波止場で、他の男達に紛れて荷下ろしなどをしていたから驚いた。しかも降ろしていたのは、密売品の酒だ。 「べつにあんたのせいじゃねぇよ」 開口一番、彼は言った。一年経って背が伸びたせいもあるだろうが、がらりと印象が変わり、もう子供とは呼べなくなっていた。一人前の男だ。 「いろいろ、間が悪かったんだよ。 もともと、親父の始めた海運がデカくなって本島の奴らに目をつけられ始めてたんだ。そこに、本島すっ飛ばしてローマから客が来た。同じ日に、うちから送ったはずの荷物が届かねえって本島から苦情が来た。 言い掛かりだよ。どこの下についてんだかはっきり態度で示せって、そういう話さ。届かなかった荷物を弁償しろってバカみてぇな額吹っ掛けてきやがった。払えねぇから、金貨の代わりにオレが来た。そういう話。 あと2年だ。こいつが消えたらこことはオサラバだ。」 慣れた手つきで手にしていた煙草の灰を落とすと、男はそれを口にくわえ、右袖を捲ってみせた。腕にはくっきりと、焼き印が押されていた。男はべつにあんたのせいじゃねーよ、と、銜え煙草で繰り返した。 「失せもんが出た日に浜に出てたのはオレだ。つけ込まれて言い返せなかったのはこっちの落ち度だ。なんか新しい事始めりゃ潰されんだよ。備えのなかったこっちが悪い。」 そう言われても、そのままでは寝覚めが悪い。 今度はちゃんと許可を得て、月に一度の巡回ミサの補助として、オレはその島に向かった。慎ましやかな離れ小島は平穏そのもののように見え、話し好きで人のよさそうな村長もあいかわらず、一年近く前に一度訪れただけのオレのこともちゃんと覚えていて我々を歓待してくれた。が、そう言えばご子息の姿が見えないがと話を振ると、それはするりと躱されてしまった。商売の事などオレにはよくわからないが、なるほど才覚はありそうに見えた。息子のことを尋ねた時、ほんの一瞬瞳をよぎった暗い影が、話すうちにまるで見間違いだったように思えたからだ。 シチリア本島に戻って、それでもまだ寝覚めが悪かったので、もうすこし余計な世話をする事に決めた。波止場に通い詰めてあいつを捜し、村に行ってきたと告げた。 そう言えば、「てめー本当に神父かよ」と言われたのはこの日が初めてだった気がする。 誓って言うが、オレは手は出していない。ただ辛抱強く、いかにもな風体の男に声をかけて聞いて回っただけだ。穏便に済ませたかったから飛んでくる拳は全部避けて、相手が音を上げて返事を返してくるまで待った。それだけだ。……おかげで、いつの間にか裏通りを歩いていても道を譲られるようになってしまったのも事実だが。 ともかく、その一派がたむろしている酒場を聞き出してあいつを見つけ、オレが見てきた村の様子を話した。あいつは煙草を片手にしたまま一言も喋らないので、オレが一方的に見てきた事を喋った。ミサの間中観察していれば、大方の住民の顔は覚えられてしまいそうなほど小さな村だったのだ。 あいつの父母から始めて延々と、粉屋の娘は漁師の息子と結婚して来月には子供が生まれるんだそうだ、なんて辺りまで話すと、流石に話のネタも尽きた。煙草はほとんど吸われないまま、根元の方まで灰になってしまった。それを灰皿に押し付けて、やっとあいつは口を開いた。 「……ジョットは?」 ジョットという男が誰の事か、オレにはすぐにはわからなかった。 「弟だよ、オレの。ほら、あんたが妙な東洋のガキ連れてきた時。」 そう言われてやっと思い出した。雨月の人探しの相手で、あの日、この男の後に隠れるようについてきた子供だ。そう言えば、ミサにはいなかった。 そう答えると、あいつは大仰に面倒くさそうな顔をした。 「ったく、また引き蘢りやがって。あいつ、また熱出すかなんかしやがったな。」 言葉とは裏腹、その表情は心配するどころか楽しそうだった。 というわけで翌月、オレは三たび島を訪れた。礼拝堂がわりに使っている集会所に、その日もジョットは姿を見せず、オレは岬の家に向かった。 ジョットは呑気に洗濯などしており、白い布がぱたぱた風にはためく中、オレの姿を見つけて、「あ、雨月の」と言った。 出された茶が、珈琲なのか紅茶なのかも判別しがたい「色のついたお湯」だったので、一口飲んでしばし、オレはこれはこういう飲み物なんだろうかと思案してしまった。師匠の命であちこち派遣されたが、こんな飲み物にであったのは初めてだ。 「あの、」と同じくカップを前にしたジョットが、やや緊張した面持ちで口を開いた。 「それで……神父様は、どうしてオレの家に?」 「今日のミサにも姿が見えなかったからな。代わりに様子を見に来た。兄が、お前を心配していたぞ。」 『あに』 ぽかんとした表情で、ジョットが繰り返す。そして突然椅子を弾きとばすように立ち上がった。 「会ったんですか!? どこで!?」 ジョットが身を乗り出し、ぐらりとテーブルが揺れる。シチリアの港町の名を出すと、ジョットはそうですかと消え入りそうな声で囁いて椅子に戻った。 「……あの、元気そう…でしたか。」 「ぴんぴんしていたな。」 「そう……よかった。」 ジョットは心底安心したように静かに息を吐いた。それから、ふと瞳を伏せる。 安堵は一変、今度はひどく落ち着かないそぶりで躊躇いがちに問いかけた。 「あの、オレのこと弟って、一体誰が、」 「誰って、それはもちろん、お前の兄がだ。」 ジョットが顔を上げる。ぱ、とオレを見上げた瞳は嬉しそうにきらきらと光を放っている。 「あの、神父様」再び身を乗り出す。 「兄の様子、また教えてくれませんか。」 「ああ、お前がミサに来たらな。」 「ミサ……」ジョットの表情は一変、ひどく心細気になった。 「オレ、一度も行ったことないんです。いつも、おじさんやおばさんに用事を頼まれるのと重なって。子供の頃行かなかったから、今更…………ああ、でも」 長い思案の果てに、やっとジョットは顔を上げた。 「行けば、教えてくれますか? 神父様。それなら……」 切実な口調は懇願に近かったので、オレが根負けした。なるほど、あの男も心配するわけだ。 「いや、わかった。どうせオレは見習いでミサの時間している事もないんだ。しばらくは、オレがここにこよう。」 「本当ですか? ありがとうございます。」 ジョットは素直に顔をほころばせた。 そうして、あの兄弟の元を往復する日々が始まった。 兄のほうは「また来やがった」と迷惑そうに、それでも最後までオレの話に耳を傾けた。 弟のほうは兄とは対称的にひどく素直で、おまけに利発だった。兄の様子を伝える傍ら、ミサに行ったことがないと言うので、仮にも聖職者の端くれとして、手始めに聖書など渡してみた。そうしたら、ちゃんと文字が読めるので驚いた。 「兄が教えてくれたんです。」 嬉しそうに、はにかみながらジョットは言う。ジョットが兄の話をする時は、いつもこんな表情だった。 「でも、一通り読み書きを教えてもらっただけだから、知らない言葉も多くて……あ、そうだ。神父様、辞書ってご存知ですか? 雨月がそれで言葉を覚えたって言っていて、それがあればオレももう少し……」 「ちょっと待て、雨月が?」 いきなりあの東洋からの来訪者の名前が出たので驚いた。雨月はとっくに帰国している。二人は、一年前のあの日に一度話をしたきりのはずだ。 「ああ。手紙をやり取りしてるんです。オレ達。」 窓辺に置かれた簡素な文机に向かうと、ジョットはその引き出しを開けてみせた。そこにはいくつかの封書がきちんと並べて仕舞われていた。 「言葉遣いはともかく、難しい言葉や文字の書き方なんかはオレのほうが知らないぐらいで、返事を書くのに時間がかかってしまって。それで、辞書っていうのがあれば少しは、と思ったんですけど。」 勉強熱心なものだ。オレなんかよりよほど、神学校にでも通って司祭にでもなったらいいように思える。 「わかった。用意しよう。」 「ありがとうございます。」 嬉しそうに言ってから、ふとジョットは表情を曇らせた。 「あの、雨月とやり取りしていることは、兄には内緒にして頂けませんか?」 理由を問う前に、ジョットは気配を察したのか再び口を開いた。 「余計な心配、かけたくないんです。あれから全部、変わってしまったから。」 ジョットは窓の外に目を遣った。眼下には島の小さな浜と簡素な船着き場があり、顔を上げると、そこに広がるのは空の青と海の青。それだけだ。 ふ、とジョットが我に返った。首を竦めて、慌ててオレのほうに振り返る。 「すみません、そういうつもりじゃなかったんです。こうなったのは、ただの偶然で、神父様のせいでも雨月のせいでもないんです。そうじゃなくて、きっと、オレが……」 「神父様はよせ。」 珍しく早口だった、ジョットの言葉を遮った。 「オレはまだ修行中の身だ。ナックルでいい。」 ジョットはきょとんと呆気にとられた顔をして、でも、と呟いた。 「でももなにも、おまえの兄なんかとっくに呼び捨てだぞ。」 もう一度瞬きして、ふ、とジョットは笑顔になる。 「わかりました。じゃあ……ナックルさん。」 教区の移動を願い出ようと思った。 生憎、オレは罪滅ぼしをしようなんて考えるような出来た人間じゃない。自分に落ち度があったとも思えないし、後悔もしていない。こんなことをしているのは、ただ、この兄弟に少し興味を持ったからだ。それだけだ。だから、こんな半端に首を突っ込んだ状態はやめようと思った。 決意は固かった。が、ただ一つ、師匠に理由を尋ねられたときに上手く答えられるかどうかが気がかりだった。しかし__師匠は、結局最後までオレの異動の理由を尋ねなかった。 今なら、上手く伝えられるだろうか。 ペンを取り直して、机に向かう姿勢を正す。 『師匠、オレは、全て神の謀り事と思います。 あの兄弟のように、誰のせいでもないとは思えません。 あいつが死んでオレが生きているのは、ただ、オレにも与り知らぬ神の謀り事だと。そう思わなくては居られません。何か必然の理由があって、ただオレにはそれが理解できない、そうだと思わなくてはとても居られません。 ここにいると、自分の未熟さを思い知らされます。あの連中に、神は不要のようです。』 紙の上にインクが滲んでいる。到底読めたものではない。 あまりの悪文にオレは頭を抱え、次いで書きかけの便せんをぐしゃぐしゃと丸めて放り投げた。 まったく、辞書も聖書も必要なのはよっぽどオレのほうじゃないか。 気を取り直して書き直す。 『というわけで師匠、 餞別に頂いた金ですが、ジョットは残念ながら聖書ではなく辞書だの地図だのを買い込んでしまいました。 地球は丸く、東の果てにあるのはエデンではなく日本で、日が沈むのは太陽が地球の周りを回っているからではなく、オレたちが太陽の周りを回っているからだそうです。もう、オレには何が何やら究極にわかりません。』 思わず、苦笑する。 本当に、わからない事だらけです。 なぜオレがここでこんな事をしているのか、一体誰のどのような思し召しか、わかった日には、また手紙を書こうと思います。 『風の噂で、西方の教区ではよくない病が流行りだしていると聞きました。どうか、お師匠様もお体に気をつけて。では。』 二つに折って封をする。 蝋をあぶりながら納得した。 この間、兄のほうに会ったときに、そんなに弟の様子が気になるなら手紙の一つも書いてやれと薦めたのだ。するとあの男は嫌そうな、まるで塩と間違って砂糖でも舐めたような顔をしてこう言った。 「冗談キツイぜ。んなガラじゃねーよ。」 なるほど、違いない。 この手紙は次に島に行くときついでに港から送ろう。 それからジョットには、お前の兄は今日も変わりないようだと伝えよう。 10.05.05. back |
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