薄紙の火はわが指を少し灼き、02 獄寺君は寝ていた。 ベッドに浅く腰掛けて、両足はだらんとぶら下がってる。上半身だけ捩って、ぺたんとベッドの上にうつぶせになってる。 座って、ちょっと眠いなって手を突いたら、そのまま寝ちゃったってかんじ。 あるのかな、そんなこと。でもランボとか、さっきまで遊んでたのが突然電池切れたみたいに寝ちゃってたりするしな。 獄寺君は、子供みたいだ。 起こすのはやめて、静かにお盆をテーブルに置いた。静かに置いたけど、そんな必要ないぐらい、獄寺君はよく寝ていた。 ベッドの脇で両膝をついて、寝顔を覗き込む。すぅ……ふぅ……って、静かに寝息をたてている。 獄寺君は、眠っていれば静かなんだ。 ふーんって、当たり前の結論を出して立ち上がる。立ち上がって、それで……ええと。 オレは、結局また、同じ場所に座りこんでしまった。 獄寺君はやっぱり寝ている。なんだか、調子が狂う。 落ち着かない、かな。っても、一緒にいてハラハラしないときなんてないんだけど。 獄寺君は、いつも勝手にオレの視界の真ん中に入ってこようとする。勝手に入ってくるから、オレは、つい視線を逸らしてしまう。……悪いとは思うんだけど、死活問題だからだ。 でも今は、オレが、獄寺君を見ている。 いつもはヒヤヒヤして目を離せないんだ。でも、今は違う。目を離せないのは同じだけど、なんか今はちょっと、どきどきする。だって、獄寺君はキレイだ。 ……て、ちょっと待てオレ! 何言っちゃってんのー! イヤ、無いから。獄寺君男子なんだから、キレイとかないから。 気の迷いだって訂正しながら、なんでだよって観察する。 ああ、そっか。おでこの真ん中の、ギッていう皺が無いんだ。 獄寺君は、ぱっと見コワイ。 女子なんかはそれがいいらしいし、山本なんかはちっとも気にしてないけど、少なくともオレは、最初は恐かった。今は随分慣れたけど、でもやっぱり時々ちょっとコワイ。……そして、常に危険。 そっか、このシワがなきゃ獄寺君はキレイなんだ。てゆーか、むしろカワイイかな? 右手が、おでこに触ろうとしていた。 イヤ、だからほんとなにやっちゃってんのオレ! 何言っちゃってんだオレ! 獄寺君は、心臓に悪い。でも……、 アレ? オレは、一度、深呼吸した。自分の息が止まっているような気がしたのだ。 大丈夫、だった。ちゃんと息をしていた。ほっとして、視線をまた獄寺君に戻す。 でも、キレイなのは本当だよな。まつげは長い。髪はサラサラ。肌は白い。それが全部、細い銀色のベールに覆われて、ぼんやりと光っている。 春を待つ月みたいだ。カーテンの隙間から、まだ冷たい夜空を見て思う。そうでなきゃ、まだかたいネコヤナギの蕾。 ガラにもなく『文学的な比喩』が浮かんだのは、ここ数日間の特訓の成果だ。 やっぱり、感謝しなくっちゃな。 オレは、静かな寝顔に目を戻した。 しかし無防備なこの寝相。うつぶせを頭のほうから見てるから、制服のシャツの下、Tシャツの襟の中、鎖骨の辺りまで丸見えだ。 骨、細いよなぁ。身長のわりに。獄寺君もまだ成長期なんだな。肌も綺麗だし、これで胸があったらグラビアだよな。キミのベッドで寝てる可愛い彼女、とかそーゆー……………… だーかーらーっ! オレは思わず頭を抱えた。そして、左右にぶんぶん振る。 今の発言無し!脳内画像も無し!せめて京子ちゃんにしよーよ。京子ちゃん京子ちゃん京子ちゃん! 必死に追い払っても、本命の女の子の名前を連呼しても、浮かんだイメージは切り替わってくれなかった。 いや、大丈夫。この妄想、胸ついてないから。って、あれ? 胸があるのとないのとどっちが浮かぶ方がヤバいんだ? つーかそんな問題じゃなくて! 違う。 なんかどっかさっきから、オレ、変だ。勉強のやり過ぎかもしれない。きっとそうだ! そうに違いない。 『頭を抱える』から『両手を握りしめる』に移行して、オレは、うんと一人でうなづいた。 獄寺君が悪いんだ、獄寺君が。 さっきまであんなに、めーわくなくらい熱心に勉強教えてたくせに、突然寝ちゃってさ! しかもかわいい顔してすやすやと。 あーもー、獄寺君は勝手だ! 起こしちゃおうかな。それで、寝顔が女の子みたいだったって言ってやろうか。きっとすっごく………… ずらずらと湧き出していた頭の中の文句は、そこで、突然止まってしまった。 きっと、すっごく、喜ぶのかな。 獄寺君は、オレには怒らない。 例えば山本だったら、他の誰かだったら、すっごく怒るだろう。おでこの真ん中にギッて皺を寄せて、左手で襟首を掴んで殴り掛かる勢いで、ふざけんなって。 でも、オレには絶対、そんなことはしない。 握りしめていた両手をほどいた。ぺたんとフローリングの床に手をつく。背中が丸くなる。 オレの口から出たのは文句じゃなくて、憂鬱なため息だった。 獄寺君は、勝手だ。 獄寺君は勝手にオレを特別にして、勝手にオレのために頑張って、で、気がついたら勝手に疲れて寝てる。オレは、毎回ハラハラしたりどきどきしたりいらいらしたり、振り回されてばっかりだ。 そうだよ。さっきから何回「獄寺君は」って言ったと思ってるんだよ。 君が寝てるとこ見るのだって、本当は全然初めてじゃ無いんだ。いっつも勝手に大怪我して、包帯だらけでベッドの上で仰向けになってさ。 知ってる? 病室って明るいから、君の髪は本当にきらきら光って見えるんだ。 それで、大体いっつも血が足りないから、顔なんか石みたいに真っ白で、冷たくて、おでこの真ん中の皺もいつもよりずっとくっきり見えて苦しそうで、ちっともキレイでもかわいくもないんだよ。 知らないだろ。 オレがどれだけ君に振り回されてるか。 どれだけ心配したか。 気がついたら、こんなにいっつも呼び掛けてる。 急にそんな顔してすやすや寝ないでよ。どーしたらいいかわかんないじゃないか。 急に静かにならないでよ。いつもの君はどこいっちゃったんだよ。 それともなに? もし本当に、君が嵐なら、コレは台風の目? 本当は静かで穏やかで綺麗なんです、とか? なにそれ、わっけわかんないよ。 オレは一人っきりで膝を抱えて、静かな寝顔に向かって、心の中でぶつぶつと、自分でも何が言いたいのかわからなかった。 馬鹿みたいだ。 「ははっ」て格好つけて笑い飛ばそうとして、その声さえ出てこなかった。今度こそ本当に、オレは息も止まっていた。 獄寺君は、勝手だ。 勝手にオレを特別にしないでよ。オレどーしたらいいのかわかんないよ。 ねぇ、獄寺君は、ずるいよ。 『……ずるい。』 寝てるのをいいことに、オレは思いっきり睨み付けてみた。ひく、と、獄寺君の目蓋が動いた。 うそだろ、ばれた? オレの心臓が飛び上がる。 「わっ……」 思わず声が出た。そのせいか、 「……ゅーたぃ、め……?」 ものすごく間の抜けた声を出して、彼は目を覚ました。 長い睫毛がゆっくりまばたきする。 で、突然、 「もっ……!」 叫んでがばっと身を起こす。 オレのベッドの上で、卒業式の見本みたいにきっちりと背筋を正して両膝を揃える。 「申し訳ありませんっ! オレとしたことがよりによって10代目のベッドで居眠りなんて!本当に、申し訳ありませんっ!!」 そして今度は、がばっと頭を下げる。 獄寺君の見事な切り替えに、オレはいっそ感心する。こっちはまだ心臓がばくばく言ってるのに。 獄寺君、さっきまで、寝てたよね? うん、あれは本当に寝てた。 でも、今はあんまり大きな声で大きな目で動くから、さっき見た彼は、幻だったんじゃないかと思ってしまう。 「い、いーよ。このぐらい。そんな謝らなくっても……」 「でも、そんなこれじゃ、オレの気が!」 「別にいーってば。」 「いえ、でっ……も、」 獄寺君は、変なところで言葉を切った。 「も……、その……」 言いながら足を引き上げて、卒業式状態から妙に縮こまった体育座りになる。 「あの……、」 白い手が膝の上で重なる。ペンを持つために、右手の指輪はすべて外されている。その無防備な手を、まだガチャガチャと武装してる左手が引っかいた。 そんな痛そうには見えなかったけど、獄寺君は熱いものにでも触ったみたいに慌てて両手を引き離した。 宙に浮いた両手は、行き場をなくしてさまよって、結局どこにも居られなくて、制服のズボンにぎゅっとしがみつく。 安っぽい布に皺がよる。獄寺君が背を丸める。 顔がずるずると半分膝に隠れて、また急に、弾かれたみたいに背を伸ばした。 頬が、目の端が、ちょっと赤い。 「あの、オレ……ちょっと、今日は……」 歯切れも悪い。どーしたんだろ、急に………… あ。 気付いた瞬間、こっちまで顔が赤くなるのを感じた。 反射的に毛布を取って、投げ付けるみたいに被せた。 飛んでいく方向なんて見ていられない。手首だけで投げた。 けど、ほんの一瞬、視界を覆った布の隙間から、獄寺君が見えてしまった。 彼はこう言おうとしていたんだ。 ほとんどいつも通りの笑顔で、わかんないぐらい普通に。 『10代目、オレ、今日はもう帰ります! 遅いですし、ご迷惑もおかけしてしまいましたし!』 オレ、タイミング、最悪。 獄寺君は、固まってしまった。 抱えた膝を、その両足の付け根を、覆い隠すようにかけられた毛布を、ただじっと見ている。凍ったような目で。 オレは、きっと獄寺君よりももっとずっと顔を赤くして、取り乱して目を反らして、フローリングの床を見てる。 最悪。だ。 折角なんでもないふりしてくれてたのに。 オレだったら絶対できない。 全然普通なふりして帰ろうとしてくれてたのに。 オレだったら、そんなこと絶対にできないのに。 オレは、気が付いたって気がついてないふりしなきゃいけなかったんだ。 なのにオレ、なにやってんだろ。 これじゃ、もうなんでもないふりなんかできないじゃないか。 つまんない気遣いが、余計に最悪な状態にしてる。二人とも、わかってしまった。わかってしまった事が、明らかになってしまった。 ああ。山本だったらどうしただろ。 オレは、心の中で助けを呼ぶ。 山本なら、絶対オレみたいなことはしない。こんな馬鹿なことはしない。 きっと、けろっと言っちゃうんだ。 『何、獄寺お前勃ったの?』 『ははっ、そんな変な体勢で寝るからだぜ』 『あー、はいはい。照れんなって、トイレあっちな』 無理だ。 ムリだ無理ムリ、絶対無理! オレには言えないよ、そんなの!! ため息をつきたかったけど叫んで逃げ出したかったけど、それだけは、どうにかこらえた。でも、どうしたらいいのかわからない。 とりあえず、一人にしてあげよう。 あれじゃ獄寺君動けないから、いや、オレが動けなくさせたんだけど、ともかく、今は、オレが部屋を出よう。 オレは、黙って立ち上がった。 だって、なんて言ったらいいかわかんないんだ。 だから黙って、知らんぷりして、ドアの前に立った。 後ろが、獄寺君が気になる。さっきから1mmも動いてないんじゃないかな。 でも、これ以上最悪にしないために、オレは何にもしないほうがいい。だって、どうしたらいいのかわからないし、なんにもできない。できるはずない。 ドアを開けた。廊下は真っ暗で、なんでだろう、オレはやっぱり振り返らなきゃいけない気がした。 獄寺君はきっとまだ固まっている。失敗した、と思っている。 おんなじ、かな? 授業中当てられて答えがわかんないときとか、バスケの試合中パスを受け損ねたときとか。 動けなくなるんだ。消えたくなる。消えたくなるんだけど消えられなくて、なのに、一人になる。 誰も助けてなんてくれなくて。 オレと、おんなじかな。 ドアノブを握り直して、まさかそんなわけないと思い直した。 そもそも仮に同じだったとして、オレになにができるの? なんにもできないだろ。 でも、身体は前には進まなかった。進んじゃいけないような気がした。 ちょっとだけ。なんにもできないけど、でも、ちょっとだけ。 オレは、がちがちに固まってた首を、後に回した。 ああ、やっぱタイミング最悪。 見るんじゃなかった。 オレが目にしたのは、今までぴくりとも動かなかった獄寺君が、ちょうど顔を上げてオレを見るシーンだった。 足がすくんだ。反射的に、オレはまた目を逸らしてしまう。でも、それはしっかり脳裏に焼き付いてしまった。 見た事もない、彼の目。ひどく頼りなげな目。この世の、終わりみたいな目。 ……どーしろって、いうんだよ。 文句の相手はオレでも獄寺君でもなくて、多分神様とかそういうのだ。 どうしろって言うんだよ? 獄寺君はまるで見たことのない顔をしている。 真っ白。 いや、もともと白いけど、そんなんじゃなくて、からっぽ。 オレの知ってる獄寺君はそこにはいなくて、どこにもいなくて、オレがこのまま部屋を出たら、ドアを閉めたら、消えちゃうんじゃないかと思った。ここにはいない、どこにもいない、いなくなったまま、もう二度と会えなくなる。 でも、じゃあどーしろって言うんだよ? オレはドアノブを握りしめた。 押せばいい? 引けばいい? 引いてどーすんの? 押して、どうするの? オレなんかに何ができるの? 目をつぶって奥歯を噛み締めてドアノブを握りしめた。 バタン! オレは、思い切りドアを引いた。風で前髪が揺れた。 知らないからな、もう! ゲンコツでスイッチを叩いて、部屋の電気を消した。残る明かりは、床の上のスタンドライト、それと、カーテンの隙間から差し込む月明かり。それだけ。 オレは振り返る。彫像みたいに凍り付いた獄寺君の輪郭が、暗闇にぼんやり浮かんでいる。 足下のティッシュボックスを引っ掴んだ。一歩踏み出した。 わざと大きな足音を立てる。途中で、足が竦んでしまわないように。そして、あと一歩の距離で立ち止まって、彼にティッシュボックスを突き出した。 急に暗くなった部屋で、獄寺君の顔は見えない。 見えないけど、相変わらずからっぽの顔でオレを見ているんだ。オレの向こうのなにかを見てる。この世の終わりみたいな顔をして。 消えてしまいたいのに消えられなくて、一人になりたいのに本当は一人じゃどうしようもなくて。なのに誰もいないから、一人で立ち尽くすしかなくなるんだ。 ああ、ちがうかな。 オレはダメツナだから、誰もいなかったから立ち尽くしたけど、獄寺君は、きっと消えてしまう。獄寺君は強いから。だから、誰もいなければ、オレがいなければ、「じゅうだいめ」がいなければ、獄寺君は………… ああ、もう!! こんがらがってきた思考回路を、オレは無理矢理断ち切った。 今は、はっきりしていることが、一つあれば十分。 オレは獄寺君がいなくなったらイヤだ。だから、放っておけない。 オレは声を張り上げた。 君がいなくなるのが、イヤなんだ。 「オレ、見てないから! 向こう向いてるから、片付けなよ、それ!」 獄寺君は動かない。ぴくりとも。オレの声なんて、届いてないみたいに。 「獄寺君!」 声は、届かない。 獄寺君は、いっつも無責任に頑張って怪我して怪我させて散々振り回して! その彼が、ここにはいない。 ひりひりする。 どきどきする。 いらいらする。 こわい。 どこ行っちゃったんだよ。 帰って来てよ。 「あのっ、あのさ。オレ達誰でもみんなそうなるんだから!だから!」 だから気にしないでよ。 それは間に合わなかった。 「、オレは、」 やっと聞いた声は、震えて掠れていた。 「オレは、ダメです。許せません。」 声は震えて、泣きそうだった。 「ど、うか、…とり、に……一人に、させてください。もう、あわす顔が……」 切れ切れにそう言って、目を伏せた。長い睫毛が下を向いて、その先端に、光る雫が生まれた。 けれど、涙は落ちなかった。落ちずに、銀色の針の先で、ふるふると震えていた。 どうにかしたかった。 どうしようじゃなくて、どうにかしたかった。こんなのは嫌だった。 いやだったんだ、こんなの。 「知らない。」 オレは言った。 「知らない! 聞かない! 何だよ、普段散々オレのコト振り回しといて……!!」 毛布に手をかけて、引き釣り落とした。 彼が息を飲んだ。ふぁ、とかなんか、そんな声が聞こえた気がした。 泣いたらどうしよう。泣かせてしまったらどうしよう。 オレだって、怖くて顔が上げられない。ただ、視界の上のほうで、カーテンの隙間から射す光を受けて、獄寺君の髪が銀色にキラキラと光っている。 問題のそっちのほうは暗くてよくわからない。じゃらじゃらと巻き付いたゴツめのベルト。オレはこんなの持ってない。したこともない。 でも、どーせ構造はおんなじだろ。 そう思って手をかけたら、ほんとに簡単に外れてしまった。じゃら、と重い鎖の落ちる音。あとは制服のズボン。仕組みはオレとおんなじで、どうしよう、実は絶対思う通りになんかいかないと思ってたのに、オレの両手は暗闇の中でも信じらんないぐらい正確に動いて、チッとジッパーの開く音がした。 ティッシュボックスから何枚か、適当につかみ取る。暗闇の中で、それだけが目に痛いくらい白く見えた。 「や……」 彼が呻いた。ひどく小さな声だった。 「……じゃあ、自分でする?」 これは、ひどく乾いた声だった。 答えはなかったから、オレは白く光る薄紙で彼の中心に触れた。 next03 backIndex .08.03.02 |
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