昼は消えつつ、ものをこそ思へ02



 10代目が部屋のドアを押し開けた。
 部屋の隅に鞄を降ろす。
 窓を開けると、五月の風が舞い込んだ。
「いい天気だね。」
 癖の強い髪が、ほんの少し風に揺れていた。
「こっちおいでよ。」
 呼ばれて、窓際によったら眩しさに目がくらんだ。眉根を寄せてしかめっ面になったオレを10代目が笑う。
「はは、急に明るいもんね。
 この部屋、ウチで一番陽当たりがいいんだ。
 一人っ子の特権、かな?
 オレ、昼間は家に居ないのに、何考えてたんだろうね、父さんも母さんも。」
 言葉とは裏腹に、10代目の口調は少しも揺らいだところがなかった。陽の光を飲み込むようにゆっくり瞬きをして、それから、窓に背を向ける。
「今日は、獄寺君に譲ってあげるね。オレの特等席。今日は獄寺君お客様だしね。」
 ほらこっち、と、10代目は窓から外へオレを指で誘った。
 その指が真っ直ぐに示す先は、雲一つないような青空だ。眩しくて、オレには直視できなくて、オレは視線を下方に転じた。
 見慣れた街並が広がっている。
 いや、でも、いつもより静かかもしれない。人の気配が薄い。休日だから、皆、出払っているのだ。
 ここにいるのは、空っぽの街と空っぽの家と、オレと10代目だけだ。
 それと、五月の空と、すべての家のすべての庭のすべての樹々に、置き去りにされた光る若葉。見えない声を上げて、一心に天を目指している。
 ああ、もしかしてこいつらも、みんな燃えているんだろうか。
 主を失って、一人になるのが怖くて、だから必死で天を目指しているんだろうか。
 もっと陽の当たる場所へ、一番天辺へ。その人に見つけてもらうために、ただただそのために、上へ上へ、燃え上がれと、炎に煽られているんだろうか。
 そういや日本語じゃ、炎も、草木が芽吹くのも、どっちも『もえる』って言うんだっけ。
 陽の当たるところでは、みんな炎を抱いて、天を目指すのか。
 でも、今は、オレが、一番高いところに居る。一番陽の当たる場所に居る。
 眼下には、すべての家に、すべての庭に、すべての樹々に、置き去りにされたくなくて、天を目指して燃え上がる、緑色の炎の点描。
 ほらこんな優越感を抱くから、オレは永遠にあの人には届かない。届かないけれど、一番近い場所をあきらめてやるつもりもない。
 背伸びしてゆっくり目を閉じたら、深呼吸するようなまばたきになった。さっき10代目がしたような、陽の光を飲み干すような。



「獄寺君。」
 振り返ると、10代目がハンガーを片手にオレに手を差し出していた。ハンガーが左手で身体の脇、差し出されているのは空の右手。10代目ご自身はもう制服のブレザーを脱いでいて、それはとっくに壁のラックにかけられている。
 差し出された手の意味はすぐにわかったけれど、無理矢理腕を伸ばしてハンガーをとった。
 あ、と10代目が不満そうな声を出す。
「もー……」
 そんな事言われても、このぐらいは自分で出来る。自分でやる。
 聞こえていないフリをして、ブレザーを脱いでネクタイも外して、ハンガーにかけた。ラックに向かって一歩踏み出したら10代目は手を引っ込めて腕組みになった。
 すこし、機嫌を損ねたかもしれない。
 でも、このぐらいは自分で出来る。
 届かなかろうが手を差し伸べられてばかりだろうが、知った事か。出来る事はオレがやる。このひとの手は煩わせない。
 決意は固い。この火は消えない。
 ……そのつもりだったが、すれ違い様に軽い嘆息が聞こえた。
 やっぱり不安になる。足が止まりそうになる。
「……あ。」
 声がして、びくっとなったオレは、ついに顔を上げてしまった。
 10代目と目が合う。
 意に反して、というか、なぜか、10代目は黒目がちの瞳をいつもより更に丸くして、じぃっとオレの顔を覗き込んできた。
「獄寺君、ちょっと、こっち。」
 10代目がオレを窓のほうへ押し戻す。
 立ち止まったのはちょうど直射日光の届く範囲の境界線上だった。再び陽光がオレを射る。
「あー、やっぱり。」
 目を眇めるオレに、10代目は笑いかける。
 機嫌を損ねた訳ではない事はわかったが、状況はさっぱり飲み込めない。
「あ。ごめんね、いきなり。
 あのね、獄寺君、瞳の色変わるんだよ。太陽の下だと。
 今、きれーなみどりいろだ。」
 とん、と足を踏み鳴らし、窓越しの四角い光の中でオレは体勢を立て直す。
「10代目、オレの目っていつも緑だと思うんスけど。」
「そーだけど、そうじゃないよ。
 今は透けてる。透明で、透き通って、ちょっと金色っぽい緑だ。いつもは、もうちょっと灰色っぽくて銀色がかってるよ。」
 熱弁を振るわれても、自分ではわからない。
「ええっと、あー、そう! ちょうどいま、葉っぱみたいな色。緑の葉っぱをお日様にかざして下から透かして見たときみたいな。」
 くっと肩を掴んで引っ張られた。
「ちょっ……! 近いですっ、10代目!」
「ん。しまった、そうみたい。オレが寄ると陰になっちゃう。」
 でも、10代目は放してはくださらない。
 どころか、肩に置かれた手が髪に移る。下から掬うように指を入れられて、乱された部分がひらひら風に踊る。
「けど、髪の色は暗いところで見たほうが好きかな。ここじゃ、毛先かすんで見えなくなっちゃう。お日様に負けてるよ?」
 元より、勝てると思った事なんてない。
「申し訳ないんスけど、この髪も目も生まれつきなんでどーしようもないです。」
 でも、もう逃げるつもりも負けるつもりもない。なにがあってもここに居る。
 ただ手を伸ばすだけだ。たとえ、その手は空を切るだけでも。
「だから、もし10代目のお好みでないんなら、速攻、染めるなりなんなりしますよ。」
「いいよ、いらない。オレ、獄寺君が好きなんだから。」
 オレを捕まえたまま、くすくすと10代目は笑う。
「って、本当に、コレ何回言わせるつもり?」
 何十回も繰り返されたやり取り。次の台詞だって、もうとっくに憶えてしまった。
『覚えてくれるまで、なんびゃっかいだって言ってあげるけどね。』



 ちょうどその時、階下から電話の音がした。
「うっあ。
 あーあ、もー。まるではかったよーに。」
 10代目はぱっと両手を離した。ついでにオレの手からハンガーを取り上げてラックにかけると、10代目はドアに手をかける。
「獄寺君は、のんびりしてて。きっと母さんだから。必ず家電に掛けてくるんだ。ホント、何のためにケータイ買ったんだろーね。」
 言い残して、ドアも閉めずに10代目は階下へ駆けていった。とんとんと軽い階段を下りる足音がして、電話のベルが止む。
 『はい、沢田です。』言った次の瞬間から、10代目の声のトーンが一段下がる。
 『うん、そう。ちょうど今帰ってきたとこ。』
 予想は、あたりだったようだ。しかも、会話の断片から察するに、話は手短には済みそうにない。
 『獄寺君は、のんびりしてて。』
 その言葉を反芻する。お言葉に甘えて、今度こそオレは窓辺から離れて、10代目のベッドに腰を下ろした。
 シャツは、よし、汚れてねーな。
 そのままパタンと仰向けに身を投げ出す。そっと、目を閉じる。
 世界で一番好きな場所はどこかと聞かれたら、そして、それに正直に答えていいのなら、オレは間違いなくこの場所だと答えるだろう。
 10代目の部屋の、10代目のベッドの上。
 それで、10代目はそこにはいなくて、オレ一人で、でも、遠くから確かにあの人の声が聞こえているとき。あの人が、オレじゃない誰かと、幸せそうに話しているとき。
 安心する、とか、落ち着く、とか、こんな気分をそう呼ぶのだろうか。
 オレは、ひどく眠くなる。このままずっと、ここでこうしていられたらいいと思ってしまう。ここは、居心地がいい。
 部屋に案内するたび、10代目は決まって「散らかってるけど」という。
 オレは、そうは思わない。10代目の部屋は、きちんと手入れが行き届いている。毎日10代目のお母様の手によって掃き清められた床の上に、10代目が読み散らかした雑誌や、着ようとしてやっぱりやめたTシャツ、チビどもの持ち込んだ画用紙やクレヨンが敷き詰められている。
 汚いものなんて、何一つない。たとえ、消しゴムのカスだって、丸められたコンビニのレシートだって、それらはすべて真新しいものなのだ。あの人が、生きている証だ。この部屋は、10代目そのものだ。
 まだ消えずに残っている洗剤のにおいと、春の日なたのにおいと、ほんのかすかな汗の匂い。ここにいると、まるであの人に抱かれているようで、でも、あの人そのものではないから背筋を伸ばす必要もなくて、目を閉じる事が許されている。遠くから、あの人の声が聞こえていて、幸せそうに笑っている。
 何の心配もいらない。
 だから、オレは眠くなる。このままずっと、ここでこうしていられたらいいと思ってしまう。
 せっかく譲っていただいた陽当たりのいい特等席は、オレには眩しすぎるんだ。
 オレは、ここにいたい。
 太陽の匂いのする場所で、眠っていられたらいいのに。手も足も縮めて丸くなって、そう、まるで、幸せな子供みたいに。




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.08.03.28