そんなんじゃないよ。 「あ、忘れた。」 理科室のドアの前で立ち止まったツナの手元を、獄寺が覗き込む。 「何をですか?」 「理科の実験ノート。」 「教室戻りますか? 10代目。」 「ううん。いいよ。家に忘れたんだ。」 折角リボーンに脅されながら予習したのに、最悪だ。 対照的に、獄寺はニコニコと笑顔だった。 「オレ、それ持ってますよ! 10代目!」 「あ、じゃあ……。悪いんだけど見せて……」 「でも、かったりぃんでロッカーに置いて来ちまいました!」 それでなんでその笑顔!? 思わずツナは胸中でツッコミを入れる。 快活に言い放った獄寺は、なんと筆箱さえ持っていない。 日本の中学というのは、テストで満点を取ればあとは椅子に座っているだけでいい世界だ。と、この頭脳明晰な帰国子女は理解してしまったらしい。 シャーペンだって教科書だって、必要なときはちょっと辺りに視線を巡らせばいい。すぐに目の合った女子が『あのぅ、よかったら』なんて差し出してくれる。あとは黙ってそれを使えばいいし、予習とかいらないし、ざーっと教科書読んでぱーっと答えて、あとは教師を無視して勝手に座っても女子に教科書突き返しても、反応は『きゃー』なんだから『ゴクデラクン』はいいよなあ、と、ツナは思う。 今だって、獄寺はツナが立ち上がって教室を移動したからついて来ただけだ。 『ダメツナ』は、当然そうはいかない。 ノートがないと実験なんかやり方分かんないし、誰かに借りるのは苦手だし、やっと仲良くなった山本は出席番号で班が違うし、もたもたしてたら絶対先生に目を付けられるし、そこでノートがないってバレたら何言われるか分かんないし、もしかしたら京子ちゃんも……。 あーあ。やだなあ、さぼりたい。 けど、ツナのようなテストで赤点組は出席点とか授業態度とかがとても重要になってくる。だから、実習をさぼる、なんて選択肢はなかったりする。 「はー……」 最悪だ。 思いっきり深い溜息をついたら、さすがの獄寺も気がついたようだった。 「もしかして、それがないと10代目はお困りに?」 「うん、まあ。」 「じゃあオレ、ひとっ走り教室行って取ってきます!」 「でも、もう……」 授業始まるよ、とツナが言うより獄寺の方が早かった。止める間もなく、獄寺はもう廊下の向こうで点になっている。 まあ、いいか。授業に遅刻するぐらい、獄寺君ならどうってことないし……、そのあと大声で「はい、どーぞ10代目!」なんてやられるこっちは、全然ただ事じゃ済まないんだけど。 結局、最悪のケースその1が最悪のケースその2になっただけだったなぁ。 それでも、理科室で『はい10代目!!』をやられるよりは、遅刻することになっても廊下で受け取って『そんな10代目がわざわざお待ちに……』のほうがまだましだろうか。 ツナは廊下で獄寺を待つことにした。窓側に移動して、壁に寄りかかる。 「すっかりなれたな。」 ツナの隣でリボーンが言う。 「ぜんぜん。どこがだよ。」 窓の外に答えを返す。 ……て? 「おい、リボーン!? お前どっから現れたんだ? 今日は何しに来たんだよ?」 「一応、家庭教師だからな。」 神出鬼没のリボーンは、本日は比較的ノーマルに、窓の外の樹の枝にいた。そして、取り出したのは家に置き忘れたはずの実験ノート。 「まさかお前、届けに来てくれたのか? たまにはいいところあるじゃん!」 「まさか。オレは、お前が不意のトラブルにどう対処するか見届けに来たんだ。」 「え?」 手を出したツナの目の前で、実験ノートは再びひょいと隠されてしまった。 「な、何すんだよ、リボーン!」 「獄寺が取りに行ったんだからいいじゃねーか。」 「ぜんっぜんよくない!」 「お前もやっと部下の使い方がわかってきたな。」 「だから部下とかいらないってば!!」 叫ぶと同時にチャイムが鳴った。 あーあ。とりあえず授業には遅刻だ。 「……はー」 ずるずるーと窓枠に肘を引っかけてぶらさがり、力なく頭を垂れる。まるで磔にでもあったような格好だ。実際、これから教室に入ればみんなの視線が石礫のように飛んでくるんだけど。 「ほんと、どこが。ちっともなれないよ、こんな生活。」 「なれたのはお前がじゃねぇ。獄寺が、だ。」 「獄寺君が?」 学校に? まあ、慣れたって言えばそうかもしれないけど…… 「ちゃんと『取ってこい』まで覚えたじゃねぇか。」 「はあ?」 ツナは耳を疑う。 「飼い馴らす、とか言うだろ。オレが言ったのは、その『馴れる』だ。」 リボーンがにやっと笑った。 「わかってなかっただろ、ほんとバカだなお前。」 「うっさいな、いちいちバカとか言うなよ! てか、」 …………てか。なんだよ、それ。 かあっ、と胸の奥が熱くなった。 「なんだよそれ。獄寺君を犬かなんかみたいに。」 キツい口調を聞いて、気がついた。 ああ、オレ怒ってるんだ。 でも、なんでオレが怒ってんだろ。オレたちはそんな関係じゃない。はずだ。 唇を湿らせて、つばを飲み込む。 飲み込んでも、胃のあたりから熱いものが、ボコボコと沸き立ってくる。 ああもう、なんだよこれ。 「あのさ。獄寺君は、犬じゃないよ。」 「当たり前だろ。」 リボーンの返事は素っ気ない。 黒いガラス玉のような目が、何でもお見通しだと言っている。だから余計、ツナにはリボーンが自分のことなんてなんにも見ていないように思えた。 「じゃあなんで、そんな言い方するんだよ。」 「ツナこそ、何ムキになってんだ?」 リボーンは、ふぃと目を空に遣った。ツナも視線を追う。 そこには、どこからきたのか小さな羽虫が飛んでいた。 「……あ、」 てんとう虫。 言おうとしたらその前に、レオンが長い舌を伸ばしてその虫を捕らえてしまった。ぱくり。 むしゃむしゃとレオンは真っ赤な虫を食べる。その小さな頭を、リボーンがよしよしと撫でる。 オレが飲み込んだ、なんだかどろどろした嫌なものには、気付きもしないくせに。 「……獄寺君は、犬なんかじゃないよ。」 「二回も言うことか?」 リボーンはまだレオンを撫でている。 ぱたぱたと遠くから足音が聞こえてきた。 「帰って来たな。」 じゃーな。と、リボーンは木の上から飛び降りた。 立って待っていることに気がついたんだろう、足音が加速する。ツナは彼の方に向き直る。 「10代目、お待たせしました!」 急ブレーキした獄寺は、息を切らし、髪も乱れている。 なんだかやりきれなくてちらっと窓の外を見ると、そこにはもう誰もいなかった。緑の枝が風に揺れているだけだ。 「あれ、10代目。外になにか?」 「べつに、なんにもないよ。」 「そっすか。」 獄寺はあっさり引き下がる。強張った声を、疑いもしない。 「そんなことより10代目! はいこれ、どうぞ! お待たせしました!!」 差し出されたのは、配布されたときから一度も開かれていないようなまっさらな実験ノートだ。 獄寺は、それ以外何も持っていなかった。自分のものは何も。 『とってこいは覚えたじゃねぇか』 リボーンの声が耳の奥に残っている。 ちがう、これはそんなのじゃない。 ツナは、努力して笑ってみた。 「ノート、わざわざ取って来てくれてありがとう。」 「いえっ!」 獄寺は嬉しそうに答えた。 フリスビーを銜えて帰って来た犬みたいだった。尻尾があれば、千切れんばかりに振っていただろう。喜びを全身で表現して。 いぬみたいだ、とツナは思う。 『よしよし、よく取って来てくれたね。』 そう言って褒めて、ご主人は嬉しそうに耳や首の辺りの毛並みを撫でるんだ。そして、灰銀の毛並みをくしゃくしゃに乱された大型犬は、 『ワン!』 そんな風に一度だけ、とっても嬉しそうに吠えるんだ。 ……そんなんじゃないのに。 獄寺君はそんなんじゃない。オレたちはそんなんじゃない。全然ない。 「それから……、貸してくれてありがとう。ノート。あと、遅刻させちゃってごめん。あと、分からないところあったら教えて。それとあと、」 「お任せください! 10代目の御用ならオレなんでもしますよ。」 ご主人に悪さする奴は吠えて追っ払います。お帰りになるまで雨の日も風の日も、毎日門の前で待ってます。レコードに録音された声を本物だと信じ込んで、いつまでも隣に座って聞き続けます。 「……ん。……ありがと、その、ほんとに。」 「いいえ! お役に立てて何よりです!!」 ツナの声に、獄寺は気付かない。 犬なんかじゃないよ。 犬の方がまだ、主人の異変に気付くだろう。 ……獄寺君は、犬なんかじゃないよ。 『何情けねぇ声してやがる。』 どこかで見ているはずの、リボーンの声が聞こえた気がした。 08.08.07. back |
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