イクス・クロス



膝の上に乗って、一回り大きな背を猫の様に丸めて、幼子が母親に甘える様に、彼は彼の主の肩に額を預けうっとりと目を閉じる。受け止めてくれるその人の存在を確かめる様に、汗ばんだ背中に乾いた傷だらけの手のひらを滑らせる。
指先が浅いくぼみに触れて、ぴくりと彼は手を止めた。
背中に大きく刻まれた十字の傷跡。
随分薄くなったけれど、医師には、皮膚の再生速度から考えて死ぬまで消えることはないだろうと宣告された。
同時に皮膚移植も提案された。
移植手術は高額かつ難易度の高いものになるだろうと予測されたけれど、彼の地位を考えれば、それは手術の障害にはなり得なかった。財力も技術力も人脈もある。
けれど移植手術は、それどころかもっと簡単な復元手術すら、傷の持ち主に頑に拒まれた。
「結構気に入ってるんだ。」
その頃にはだいぶ板に付いていた自嘲めいた笑みで、やんわりと、しかし有無を言わせぬ強さで答えた。だから、傷跡はそのままだ。
それでも、こうして指先が触れるたび、考えてしまう。
再生された皮膚は薄くて、そこをなぞればむず痒い快感を与えられることだって知っていたけれど、触れたことさえない。傷を越えて、出会った頃と変わらない滑らかな肌だけを慈しむ様になで上げる。
「……気に入らない?」
オレは、背中にX―イクス―なんて、出来過ぎで悪くないと思ってるんだけど。
そう言われると返す言葉もない。
こんなものなければ、こんな運命受け入れずに済んだんじゃないんですか?
自分じゃ見えない血の呪縛の上に、やはり自分じゃ見えない十字の刻印まで背負って、なんでそんなにあっさり受け入れてしまうんですか?
「やっぱり不満そうだよ。オレを10代目にしたいんじゃなかったの?」
「……それとこれとは、別の話です。10代目は、10代目じゃなくてもオレの10代目ですから。」
顔を上げると、笑うブラウンの瞳に自分が映った。
なんて顔だ。完全にふてくされてすねている。
「……あのさ、後悔なんかしてないんだよ。オレ、積極的に選び取るのなんか向いてないんだ。自分で選んだら自分で逃げられるんだもん。向いてないって。そんなんじゃ速攻逃げちゃうよ。退路断たれて、腹括ってやるっきゃないって方が、オレに生き方にはあってるよ。逃げようがないからね。」
そんな風に笑って言うくせに、気に入ってるなんておっしゃるくせに、その人はその傷を人目に晒そうとはしない。
傷が出来てから、10代目は明らかにそれまでと一線を画す様になった。自分はもう戻れないのだと言わんばかりに。
腹を括る、決意する、運命を受け入れる、自分の道を選ぶ。
それが、どこか寂しそうに好きな女の手をそっと振り払うことを示すのなら、オレは、こんな傷なかったらいいのにと思う。
あの時、もしオレがその場にいたら、お守りできたんだろうか。
10代目の背中には傷がつかなくて、あの女の小さな手を放すこともなくて、こんな風に、オレと抱き合うこともなかっただろう。けど、それが守るってことじゃなかったのか? オレが守りたかったものって、今は失われてしまったものなんじゃないか?
「そんな顔するなよ。本当に、オレはこれで良かったって思ってるんだ。」
疑いもしなかったんだよ。
10代目は笑って、目を細めて、その瞳は誰もかもを追い出す。
「みんなが死んでるかもなんて疑いもしなかった。頭が沸騰して、やるべきことはたった一つしか思いつかなかった。目の前の敵を倒さなくっちゃって。それで、あー、オレ、こっち側に来ちゃったんだなーって実感したんだ。」
傷がついて逃げられなくなったんじゃないんだよ。傷がついたときに、自分が誰だか気付いたんだ。だから、これは、その記念。
そっと、もつれ合ったままベッドに転がされた。
照明を落とす、なんて儀式はいつの間にか省略される様になってしまったので、逆光で、その人の顔は見えない。静かに声が降る。
「結構、気に入ってるんだ。オレは見えないけど。だから、君ぐらいは祝福してよ。」
胸元に口づけを。
これから始まることに備えて、そっと彼の背中に手を回した。

それでもオレは、その傷に爪を立てたくない。




08.10.19.
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