薄紙の火はわが指を少し灼き、03 それはまだ熱くはないけれど、既にしっかりとした芯を持っていた。 彼は息を止めていた。けれど、根本はドクリドクリと脈打っていた。オレの頭は考えることをやめていて、暗闇の中で手だけが勝手に動いた。 白い紙が上下に動く。手の動きは速いのに、薄紙の端はひらひらと舞う。上に、下に、ふわりふわりと浮き沈みを繰り返す。その様はひどくのんびりとしていて、いっそ優雅で、まるで綺麗なものの様に見えた。 白い蝶みたいだ。 そんなたとえは変だと誰かが言った。 これは綺麗なことじゃない。でも、汚いことでもないはずだ。 正しいことなはずがない。きっとどこかで間違っている。 なのに、オレの心はもう何も迷っていなかった。 心が、春だと言った。 白い蝶とか、風に揺れる花の枝とか。てのひらの下でむくむくと膨れていくもの、どんなに息を潜めてもどくどくと熱く脈打つもの。これは、その仲間だ。 ここにあるのは、春のはじまり。地面から熱をかき集めて、枝の先を張り詰めて、白い雫のような蕾をつける。やがてはじけて花を咲かす。 それを無理矢理身体の中に押さえ込むように、獄寺君はぐうっと背を丸めた。 両手できつくベッドの端を掴んで、指がマットレスに食い込む。それでもまだ足りないのか、藻掻くように、縋るように、両手がシーツを掻き集めていく。シーツはぐしゃぐしゃに折り畳まれて手の中へ飲み込まれていく。 そんなに風に必死に引き留めようとしても、春の炎は消えてはくれないんだ。 重ねた紙の下からでも、それが限界まで膨れ上がっているのがわかった。なぞり上げるたびにびくびくと震える。 いっそ、『出していいよ』と言ってあげたかったけれど、どう言えば獄寺君を傷つけずに伝える事ができるのかわからなかった。 だから、ただ機械的に手を動かした。根元から、上へ上へ。先端へと導くたびに、彼は息を止めて身体を強張らせる。息を止める。 視界の上の方で銀色の髪がはらはらと光って、左右に揺れる。欲求を追い払うように頭を振る。 相当キツイはずなのに、彼は頑なにそれを押しとどめていた。 死んじゃうんじゃないかな。こんなに長く息を押し殺していたら。 まさかそんなはず、と思う反面、もしかしたら本当に、と思った。 獄寺君なら本当に、このまま死ぬ方を選んでしまうかもしれない。処刑台でも拳銃でも、ここにあれば、そっちを選びそうだ。 獄寺君なら。「10代目」の前で、そんなことになるぐらいなら。 困ったな。オレはそんな事望んでないのに。 「オレ」なら、そんな事望まないのに。 獄寺君は勝手だ。 動き続ける手とは別に、心がまたそんなことを言う。ひらりひらりと蝶のように闇を舞う白い紙が、オレの頭をぼーっとさせる。夢でも見ているような気がしてくる。 そうだきっと、夢なのかもしれない。現実じゃないのかもしれない。じゃあいいや。だったら。 気持ちよくして、終わりにさせてしまおう。 なぞり上げたまま、もう手は降ろさないで、指先でつうっと出口の周りをなぞった。彼が息を呑んだ。やめてくれと懇願するように。 けれど、オレは躊躇わずに続けた。彼が、ついに大きく口を開けて、息を吐き出す。オレの耳にかかって、ちょっとくすぐったかった。 一度抵抗に失敗したら、あとはもう自分でもどうしようもないみたいだった。彼は、荒い呼吸を繰り返す。押し込めようとして失敗して、いつもより高めの音が喉から漏れる。 先端は、とっくにぱかりと口を開けていた。もう一度根元から扱き上げて、出口をそっと、手のひらでなぜた。 彼がなにか小さく鳴いた。 顔を振り上げ、銀の髪が跳ねた。手の中で、熱いものが弾けた。白い紙が濡れて、くしゅりと縮んだ。 オレの手は、濡れなかった。獄寺君が必死で押しとどめていたそれは、ほんのちょっとしかないものだったから。 だから、てのひらは濡れなかった。ただ、熱かった。 燃えているみたいだ。両手で包んだその内側にあるものは、まだ熱い。でももうすぐ、その火も消える。 オレはそっと、手を離そうとした。絡めていた指を伸ばす。その手の甲に、光る雫が落ちた。 冷たい雫がオレの肌に落ちて、じゅっと燃え尽きる音を立てた。 え?、と、オレは顔を上げた。 雫は、上から降って来た。見上げると、獄寺君の頬に光るラインが一筋出来ていた。オレはそれを目で追う。 顎の先から瞳へ。長い睫毛は、もう濡れてはいなかった。かわりに、淡い緑の瞳が月の光で冷たく濡れて、静かにオレを見ていた。 オレはやっと気がついた。 ちがう。燃えているのはオレの手だ。燃えているのはオレ自身だ。 自覚した途端、身体がかあっと熱くなった。 頬が、耳が、胸が、熱い。火照っている。 気付いた次の瞬間には、それは一気に下半身に流れ込む。 一カ所に注ぎ込まれて、そこがぎゅうと苦しくなる。 ああ、これじゃまるでオレ、変態だ。友達のを弄って、自分までこんなになるなんて。 後悔のせいか衝動か、頭から、体中から、血の気が引いていく。血の気が引いて、たった一カ所が集まった血ではちきれそうになる。 熱い。熱いのに、寒い。 春の夜だ。 オレの身体は、春の夜の花の蕾みたいに、暗闇の中で熱を蓄えて、爆ぜるときを待ち構えていた。頭が真っ白になる。 ああ、獄寺君は軽蔑するだろうな。 掻き消されていく意識を呼び戻して、真っ先に浮かんだのはそんな事だった。 ごめん。君の理想の10代目は、本当はこんなどうしようもないやつなんだ。ごめん、でも…… でも、生まれてしまった炎は、もうどうすることも出来なかった。 熱い。 熱いものが心臓から吐き出されては、どくどく音を立てて一カ所に注ぎ込まれていく。 ああ、このままじゃ溢れる。溢れたら、終わってしまう。 彼がいなくなるのが嫌だった。 ハタ迷惑な隣人。身勝手な自称右腕。だけど、オレの、大事な………… さあっと血の気が引いていく。コレは、やっぱり後悔なんだろうか。 行かないでほしかった。呼び止めたかった。どんな彼でも、そばにいて欲しかったんだ。 けど、オレにはもう、そんな偉そうなこと言う資格はない。 遠くで誰かが嗤っている。 ほらみろ。やっぱりダメツナだ。やっぱり、なんにもできなかった。 呼吸が引きつる。なんでだろう。オレは顔を上げた。 なんだよ、オレ、助けてほしいの? 都合いいよな。身勝手なのは、よっぽど、お前の方じゃないか。 でもほんのすこし、もしかしたらと思ってしまった。だからとどめを刺したくて、上向いていく顎を、オレは引き止めなかった。 next04 backIndex .08.03.02 |