シーツ02



 獄寺の目に、束の間翳りが差した。
 ほんの一瞬暗く濁って渦を巻いて、あっという間に消え失せた。
 ああ、まただ。とツナは思う。
(獄寺君、また何か考えてた。)
 何かがなんなのか、ツナは知らない。
 ツナだって、同性の獄寺とこんなことをしていることに後ろめたさがない訳じゃない。ふと気が付いたら片腕だけ妙に疲れている日があったりして、その理由に思い至った瞬間には、もうこんな馬鹿なことはやめよう、なんて思う。思うけれど、結局思うだけだ。
 獄寺が考えていることとは、根本的に質が違うような気がする。
 獄寺の瞳によぎる影がなんなのか、ツナは知らない。まだ知りたくない。漠然と、それは踏み込んではならないものだと思う。
(そりゃ、いつかは、教えてほしいけど。オレから訊いちゃ意味がないような……)
 獄寺の、金属めいた緑の瞳の向こうに、時折透けて見える暗い穴がある。
 なにを考えてるの? なに隠してるの? どこにいるの?
 浴びせかけたい疑問なら山積みだ。本能的な制止を振り切って、問い質してみることを考える。
 獄寺なら、自分になら、それが喉を灼く毒のようなものでも包み隠さず教えてくれるだろう。それとも、さすがにそこからさきは晒して見せてはくれないだろうか。
(誤魔化されたら、オレきっとへこむよな。勝手に、裏切られたとか思って。)
 ツナは、まだ幼い指先で、獄寺の肩の傷跡を数えていく。傷口じゃない、傷跡だ。どうやったらこんな跡が残るのか、ツナには想像もつかない。
(教えてもらえなかったらへこむくせに、教えてもらってもわかんないだろうって。それ、全然ダメじゃん。すっげーわがまま。)
 一番大きな傷跡を舌先でなぞった。肌に顔を寄せると、肩から肘にかけて、細い針で引っ掻いたような傷跡がいくつも連なっていることに気が付く。今は肌全体が薄紅く上気しているから尚更目立つ。内から火照らせても、尖らせた舌先でなぞり上げても、傷を塞いだ弱い皮膚だけは、白いまま変わらないのだ。
(そういえば、皮膚組織がどうとか、なんか生物でやったよーな、そうでないような、)
 かぷりと口づけて吸い上げたら、獄寺の背が撥ねた。
「っ、10代目、そこ、……や、」
「嫌?」
「……じゃ、な……」
「どっちだよ。」
 ふざけて、今度は耳朶に噛み付く。
「ひぁ、」
 逃れるように顔を背けられて、白い首筋が露になる。ここには、傷はない。
(肩と同じのがあったら、死んでるもんな。)
 それがどういうことなのか、ツナにはピンと来ない。
 今、ここにはいられなかったかもしれない、獄寺の昔。
 ピンと来ない以上、やっぱまだ当分訊けないよな、と最初の勘と同じ結論に辿り着く。まだ知りたくない。まだ訊けない。
 首筋に顔をうずめると、乱れた呼吸が聴覚を奪った。
(今、ここに居るんだから、今はそれでいい。)
 それに、知りたくないからって、放っておきたい訳じゃない。ただ、今は、隣に立つよりここに引きあげたい。その穴を覗き込むより空を見せたい。
 傷穴を掘り返すよりも、埋めてあげたい。
(って、身もフタもないし。)
 さっきまで、そしてこれから、獄寺の身体にすることを考えてツナは苦笑する。
 笑ったのがわかったのか、獄寺が顔をこちらに向けた……らしい。顎がこつんと頭に当たった。見ると、うるんだ瞳にかすかに不安の色が浮かんでいる。
「なんでもないよ。」
 微笑んで見つめ返すと、獄寺も照れたように目を細めた。たまっていた涙が決壊して睫毛を濡らす。元々感情の起伏が激しい方だけれど、身体が緩むと心までねじが飛んだようにその振れ幅が大きくなる。獄寺は素直に、怯えた様に泣いたり屈託なく笑ったり。
(かわいい……は、やっぱ禁句かなあ。)
 暴れられたら、ちょっと困る。困るので今後の課題にして断念する。
 かわいいを口にする代わりに、まなじりを伝う涙を舐めとった。かすかに塩の味がする。それから、薄い傷跡の浮かぶ肌を肩から下へとなぞった。
 ぴったりと覆いかぶさるように身体を重ねる。
(……でも、手を、)
 張り出した上腕の膨らみを撫でて、硬い肘の骨を包んで、白い腕を辿って。固くシーツを握りしめた獄寺の手に、ツナは自分の手を重ねた。
(君の手を、オレに預けてほしいのは、本当。)



 自分の心臓の上に、誰かの心臓が乗っかっているのは変な感覚だ。
 こんな近くに他人がいるなんてありえない。まして、それが10代目なんだから訳が分からない。
 頭がくらくらするのはきっとあれだ。ドップラー効果。心拍数がずれてるからぐらぐらするんだ。もちろんこの場合間違ってるのはオレの方だ、10代目が正しくない訳がない。従ってオレは速やかに呼吸と心拍を整えるべきだ。
 とかなんとかズラズラ考えたところで心身が落ち着く訳がない。それでも一応、獄寺は念じてみる。
(あーくそ! 落ち着けよ、オレの心臓! それでもテメーは10代目の……っ、)
 落ち着く訳がない。念じているさなかにも、当のツナ本人から緩やかな刺激を与えられ続けている。
(っ、やだ10代目そこはダメですうそですだめじゃないです。ぅあ、でもやっぱやめ、て……、つーかなんで泣いてんだよオレ、もーわけわかんねぇ、ごめんなさいじゅーだいめ、おれのあたまはこわれました、みぎうでしっかくです、もうしわけありませ……)
「……ぅん、やぁ………あっ」
 勝手に漏れた声に思考回路が中断する。
(って、なんだよ今の声。やっぱありえねぇ!)
 前言撤回。
 両手を強く握りしめて、獄寺はどうにか理性を保とうとする。胸の上でくすくすと楽しそうにツナが笑う。甘い炭酸水みたいだ。
 内側から身体がふわふわ軽い泡になって砕けていく。キラキラ光る綺麗な破片なんて、そんなものにはなれっこないと獄寺は思うのに、くすぐったい声が耳から頭の中に入り込んで、勝手に身体を造りかえていく。
(オレが、そんなもんになれるはずないのに、)
 息が弾む。融けた頭がチャプンと鳴った。この中に詰まっているものが綺麗なもののはずがない。白い泥のような生臭い体液。かけらも綺麗じゃない。
 錯覚だと自分に言い聞かせる。
 自分の身体の中に、10代目と同じものが存在する訳がない。どれだけ肌を重ねても、内側に手を入れられても、同じものになるはずがない。
 ゆっくりと息を吐く。嬌声にならないように、ただ呼気を外気と取り替えるだけに留めるように、なけなしの集中力を傾ける。それでも、胸の中にツナの匂いが入ってきて胸が苦しくなる。鼻の奥がつんとして、くらくらと目眩がする。
 いっそ、どうにかしてほしかった。
 肉を割いて意識をずたずたに切り刻むような、わかりやすい快感なら何も考えずに済む。自分のことなんて考えたくなかった。
(……10代目、)
 呪文のようにその名を唱える。
(じゅーだいめ、じゅーだいめ、じゅーだいめ、)
 自分のことなんて考えたくないから、その名を唱える。さっき与えられたものを思い出す、これから与えられるだろうものに思いを馳せる。それさえあればなんにもいらない。欲しいのはそれだけ。どうか、はやく、もう一度、何度でも、あなたのものをオレに埋めて。目眩のような切実な願い。
 途端に、獄寺は自分の内部が蠢き出すのを感じた。
 なんてわかりやすいんだろう。やっぱり昔奴らが言った通りなのかもしれない。
 少なくとも、身体が融けて透明な炭酸水になるよりは、よごれた精液になる方がオレにはお似合いだ。
(……じゅーだいめ、)
 腔内に溢れた唾液を飲み下した。
 こくんと喉が鳴る。その場所を唇で食まれる。逃げるそぶりを見せたら軽く歯を立てられた。
 小さな痛みに背筋が震える。反射的に身体を強張らせると、ツナが詫びるように歯の痕を舌先で舐めた。そっと唇で噛んでほぐされる。それだけで簡単に、ぐずぐずと身体が蕩けていく。
「……ふ、ぁ……」
 鼻にかかった声がこぼれても、もう獄寺は動じない。かえってそれが意識を眠らせるクスリになる。
 皮膚の外側の柔らかな刺激を追いかける。息を整える間、戯れに与えられるだけの温もりだと思えば、どう反応すればいいかわかる。飲み干して、骨の奥で熱に変えて蓄えればいい。そのために与えられているのだから。
 この刺激はオレのためじゃない、オレが乱れてあの人が愉しむためだ。だから存分に、オレはこれを享受しなくてはならない。
 そのためと思わなくては、獄寺はこの甘い刺激を受け入れられない。けれど、ツナにこの解釈が知れたら、きっと彼は怒るだろう。わかってないと言って。
(じゅーだいめ……、ねぇ、じゅーだいめ。申し訳ありません。でも、10代目にはどうか、オレの中が見透かされていませんように。)
 重ねた手の甲を、そっと撫でられた。普段は剥き出しで外気に晒されているはずの場所だ。なのに、今日は特別な場所のように丁寧に触れられた。張り出した中指に連なる骨の上を、ゆっくりと辿られる。焦れったくて身体の奥がうねる。沈んでいく。ぐしゃぐしゃとシーツを握り込んで繋ぎ止める。
 自分の指先に力を込めると、その外側のツナの指先もくっきりと意識されて、かえって腰の奥の疼きは大きくなった。つぅっと指先が骨の上のラインから逸れる。骨の上から落ちて、指の間の谷間に潜り込む。
「……っ、」
 ぞくりと身体が震えた。
 その感覚は脚の間を裂いて入られる感覚に似ていた。よく似た感覚を残して、指先は去ってしまう。衝撃だけが長く尾を引く。尾を引いて、腰の辺りにとぐろを巻く。
 そこを確認しようと獄寺はわずかに上体を浮かせた。が、視界はツナに遮られてしまった。シーツの上に押し戻される。ツナは愉しそうな笑みを浮かべて、獄寺の手の甲に指を置く。
 また、同じ衝撃が与えられる。予兆だけで、背筋をぞくぞくとした快感が這い上がってくる。同じ道を通って融けた身体が溢れ出ようとする。
「や、……じゅーだいめ、待っ、」
 同じ場所を、今度は爪の先でカリリと引っ掻かれた。
「………ぁ、ア!」
 痛くはない。痛みなんてない。ただ、どうしようもなく疼く。
 ただやさしくカリカリと尖った刺激が繰り返されるだけだ。それだけで、時に細かく、時にゆっくりと繰り返される細い刺激に、甘い電流が全身を貫く。
「じ、じゅ…だい、めっ。あの、コレ……!」
「……うん。これが、なに?」
 問い返して、悪戯そうに笑って、ツナが一旦手を止めた。一瞬遅れて、獄寺は大きく息を吐く。
 やさしい苛みから解放された場所は、じんじんと熱を持っていた。手に力が入らない。自分から動かそうとするだけで、指の間で灼けつくような熱が生まれる。どくどくと駆け巡る血流に乗って、熱は下腹部の鈍い響きとなる。
「……あは……ふ、ぅ……」
 獄寺はシーツの上に身体を横たえた。息を吐いて、脱力する。腰の奥の疼きは収まらない。握りしめていた手にも、しばらく力は入りそうにない。そこにまた、ツナが手を重ねてくる。そおっと手の甲を撫ぜる。
「獄寺君、こんなところ気持ち良いんだ?」
 獄寺は、答えられない。気持ち良い、なんてものではなかったから。
 ツナはにこりと微笑んで、散々やさしく嬲った場所に、今度は指先を潜り込ませようとする。獄寺は慌てて再び手を握りしめた。けれど、抵抗は間に合わない。ツナの指先がまるで蹂躙するように略奪するように、キツい隙間に捩じ込まれていく。
「んっ……ふ、は………ぁ……!」
 繰り返されるマフィアとしての実戦演習のおかげで、単純な握力だけならツナと獄寺の間に大きな差はない。まして獄寺は、先ほどから間断なく与えられていた甘く鋭い刺激のせいで、もうほとんど余裕がない。左手は簡単にシーツに押し付けられ、ツナの手に捕らえられてしまう。4つある指の股全てに他人の……ツナの指をがっちりと銜え込まされた。4本の指はバラバラに、まるで十分に馴らされた秘所の様になった場所を、あるいはやさしく、あるいは乱暴なまでに激しく押し開いていく、犯していく。
「ア! あっ、ふぅ……っく。ア、アア!!」
 後孔を犯されているも同然だった。いや、その場所よりも狭い事、獄寺を翻弄するバラバラな4つのリズム、汗のせいで奏でられるくちゅくちゅという淫らな水音、そして何よりそれがただの指の付け根であるという事が、有事の際には攻撃の起点となる場所だという事が、そして何より、己の理想のために、こんな行為とは無縁であるべき場所だという事が、獄寺を動揺させていた。
(っ、なんで……? オレどーして、こんな……)
 疑念が脳裏を駆け巡るけれど、形にならない。
 息が乱れる。心臓が暴れる。身体が熱い。
 腰が揺らめいて、そんなところよりそこに欲しくて、自分ではどうしようもない。
(やべ……イき、そ……)
 とっさに、自由な右手で自分の口を塞いだ。
 指に噛み付く。歯を立てる。痛みで、わずかに理性を取り戻す。
 自尊心なんていらない。『10代目がそうであれと望むなら』矜持も理想も全部捨ててやる。そう思うのに、獄寺はいつも、こうやって最後の瞬間にそれを捨てきれない。
 情けないにも程がある。なんて女々しいんだ。その人に比べればゴミみたいな自分の心なのに、身体なのに、それでもやっぱり捨てきれないなんて。
 ギリギリと指を噛んだ。悔しくて情けなくて、冷たい涙が頬を伝った。
(こんなの、捨てたい。忘れたい。)
「うわ。こら、獄寺君!?」
 噛んだ手に、ツナ慌てて手を伸ばした。




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