昼は消えつつ、ものをこそ思へ01



「駅前商店街がバーゲンで、しかも福引大会なんだってさ。」
 ご自宅の鍵を指先でつまんでぶら下げて、10代目はそうおっしゃった。
 ゴールデンウィークの中日。日本中が休日だが、教室だけは平日の放課後。
 かったるいマークシートのテストが終わって、皆伸びをして休日の街に飛び出していく時間だ。
「それで、今日はうちみんな揃って出掛けてて、帰っても誰も居ないんだ。夕方までだけどね。だから、よかったらこのままウチに来ない?」
 その申し出はとても嬉しいものだったので、オレはすぐに「喜んで」と答えた。
 10代目は嬉しそうに微笑まれた。だから、オレの『喜んで』は決まり文句ではなく、本当に喜んでいるとちゃんと伝わったのだろう。



 ご自宅にお邪魔して、いつもなら二階へ続く階段を上るところを、10代目はリビングのほうへと手招きした。
「何か飲むでしょ?」
 キッチンの冷蔵庫から飲み物を取り出すその最中も、やっぱり10代目はひどく嬉しそうだった。オレは不思議そうな顔をしていたらしい。グラスを手渡しながらオレの顔を覗き込んで、ああ、と10代目は呟いた。
「ほらウチ、一応母子家庭だったからさ、」
 スポーツドリンクを一口飲んでから、10代目は「昔は、だけどね、」と付け足した。
「だから、家で一人で留守番って結構あったんだけど、誰も呼んだことなかったから。一度やってみたかったんだ。」
 呼べるような友達、いなかったしね。
 少しだけ照れ臭そうにそう言って、10代目はまたグラスに口を付けた。ごくごくと半分まで一気に飲み干す。
「に、しても。こうして見ると、意っ外に広いなぁ。」
 無人のリビングを見渡す。ソファの向こうには大きな窓があって、庭に続いている。
 いつもは、こんなに見晴らしはよくない。チビどもが走り回っていて、10代目がそれをやめさせようと追いかけ回してらして、10代目のお母様が忙しそうに立ち働いている。
 こんなに静かなのは、初めてだ。
 窓の外には五月の陽光。庭の新緑が、きらきらと輝いている。
 対照的に、明かりもテレビもつけていないリビングは薄暗くて静かで、いつもと同じ10代目のお宅なのに、まるで違う場所にいるように思えた。
 オレはなぜか、大昔に飛び出したあの古い城を思い出した。石造りの壁と、薄暗いシャンデリアと、春風を感じた事など一度もないような分厚いビロードのカーテン。ドア越しに聞こえるメイドたちの口性ないおしゃべり。それから、古ぼけたグランドピアノ。背伸びして一人で上る椅子。
「……いつもは、何してらしたんですか?」
「んー?」
 窓の外を見ていた10代目が、オレを振り返る。
「一人で、留守番なさってた時です。」
「あー……」
 再び、外の緑に目をやる。一瞬、眩しそうに目を眇める。
「……部屋でゲームかマンガ。」
 どこか照れくさそうに、10代目は笑う。
「せっかく一階のでかいテレビもソファも使い放題なのにさ、結局落ち着かなくて二階に引っ込んじゃうんだよね。ほら、ゲーム機持ってきても配線めんどくさいし、いちいちマンガ取りに階段上り下りすんのも疲れるし。」
 肩を竦めて、ため息を一つ。
「皿洗えば床が水浸しになるし、掃除はすんでたし、料理なんかは夕方、母さんが帰ってきてから自分でやるし。」
 片手に持ったグラスの中身をじっと見つめて、それから、器用に中身をくるりと回した。
「することないし、落ち着かないから、いつも通り部屋に居たよ。」
 そう言って、一気に残りを飲み干すと、10代目はことんとテーブルの上にグラスを置いた。顔を上げる。オレを見る。やっと。
「……あれ、獄寺君は喉渇いてなかった?」
「あ、いえ! いただきます!」
 慌ててグラスに口を付けたオレを、10代目はやっぱりとても穏やかな目で見ている。
 10代目は、変わられた。
 本質的なところは何も変わっていないけれど、でも、変わった。
 優しくなった。穏やかになった。
 相変わらず、テストが来た、予習が当たる、なんか暗殺者が潜伏してるらしい。あーもー、嫌になっちゃうよなー。そう繰り返すけれど、でも、確かに変わった。
 時折垣間見せる、かつては片鱗でしかなかった芯の強さが、確かなしたたかさになった。
 そして、オレは……結局、相変わらずだ。
 ただひたすらにその人を見つめている。変わったとしても、ほんの少し。
 見つめる顔に、横顔が増えた。至近距離ではなく、遠景が多くなった。あの人が何を見ていても、どんなに遠くにいても、もう怖くなくなった。のどが裂けるまで叫ぶ事も、駆け寄ってひざまずく事も随分減った。
 いまはもう、ただずっと、遠くから見ていることができる。
 いつか必ず、オレを見てくれるから。いつかは必ずオレも見てくれるから。
 オレが、見ている。
 その事実だけで十分になった。
 その目は、他の誰かに向ける目と同じなのかもしれない。オレだけが特別な訳じゃない。
 あの人のまなざしは、誰にだって平等だ。
 そう、五月の陽の光と同じだ。
 影から一歩踏み出せば、誰にも、どの若葉にも、等しく降り注ぐ光だ。届かないとわかっていてつい手を伸ばすのは、オレの勝手だ。
 オレが特別なわけじゃない。オレが勝手に、天に、高いところに、手を伸ばしている。
 それを、まるで見透かしたように、あの人は買い被ってるよと笑う。
「オレはそんな大した奴じゃないよ。
 それに、何回言わせるの?
 オレは……」
 言われるたびに、胸の奥底に小さな火が灯る。
 本当に、何度も言わせてしまっている。それでも疑っている自分がいる。
 もっと、あなたの近くにいられたらいい。
 選ばれたいんだ。唯一の存在になりたい。一番高いところに行きたい。もっと、天頂、陽の当たる場所に。
 陽が射すから、あの人のいれば、そこは暗闇じゃないから、ついそんな事を思ってしまう。
 自惚れだ。届かない。あの人は選ばない。
 これは、オレの勝手な我侭だ。
 苦い思いを甘い水で飲み干した。
 思いは苦い。けれど、同時にこの身を満たす決意は冷たくて清らかだ。澄んだ水の底で、静かに炎が燃えている。
 これは燠火(おきび)だ。
 昼の光の下で、消し炭の中で、静かに息づく小さな赤い点。
 けれど、息を吹き込めば、いつでもあの人のために燃え上がる。天を目指す。走り出す力になる。だからオレは、遠くからでも、横顔でも、もう何も怖くない。
 変わったのは、もしかしたらオレの方なのかもしれない。
 オレは、炎を抑える術を学んだ。



「……あれ。ねぇ獄寺君、なんだろ、アレ。」
 リビングの一点を、10代目が指差した。ソファとテレビの、ちょうど中間のあたり。行って戻ってきた10代目の手には、つやつやと光る白い小石があった。
「宝物だね、ランボの。まったく、すぐ拾ってきて見せびらかすくせに、すぐに落として大騒ぎするんだから。」
「あいかわらず、アホ牛っスね。」
「そうでもないよ。」
 ことり、とテーブルの上に小石を置いて、10代目はオレを見上げた。至近距離なら、まだオレの方が背が高い。でも、見上げられると首の後ろがひどくくすぐったくなる。
「少なくとも最近ね、すぐにおぶってって言わなくなった。ま、その分、余計な拾い物も落とし物も増えたんだけどね。」
 肩を竦めて、今度はご自分の空のグラスを手に取る。袖をまくって洗い場に向かい、手早く洗ってカゴに伏せた。ついでに、その辺のカップも洗って伏せる。
「獄寺君も……、もう終わってるね。」
 ひょいとグラスを手に取られ、それも同じように洗われてしまう。
「あっ、オレ自分で……」
「自分で、何?」
 にやっと、10代目がわらった。
「獄寺君がやったらそこら中水浸しだし、きっとグラスも割れるよ。ほら、そろそろみんながジュースだカルピスだって言い始める時期だからね。ウチ、グラスは貴重なんだ。」
 それに君、今日はお客さんでしょ。
 言いながら、10代目はてきぱきと片付けていく。最後に、タオルで手を拭く。オレは黙って見ているしかない。やむなく突っ立っていると、仕事を終えて顔を上げた10代目に、ちょいちょいと指で呼ばれた。
 顔を寄せる。と、ひた、とまだひんやりと湿った手で、頬に触れられた。
「なっ……! な、なに、なさるんスか!?」
 オレは思わず一歩後ずさる。
「何もそんなにびっくりしなくても、」
 くすくすと10代目が笑う。それは楽しそうに。
 ああ、本当に、まるで敵わなくなってしまった。
「なんにもしないよ。言っただろ、夕方までにはみんな帰ってくるって。ただちょっと、触りたかっただけ。」
 『ただ、ちょっと、だけ』なら、そのほうがよっぽど大問題だ。けれど、反論が声にならない。10代目はくるくるとまくり上げていた袖を降ろす。
「さて、と。二人でいてもやっぱりリビングじゃなんか落ち着かないし、二階行こうか。」
 ご自分の鞄を手に取って、オマケにオレの鞄まで取り上げられてしまった。そうなったらもう、後についていくより他になかった。




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.08.03.28